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ミシャグチの神はまことに蒼古としてゆるやかな神格で、もはやこの世には、このカミを祀る神社らしい神社すらない。
いや、神社という装置も、明治の御一新以降、異界とのアクセス・ポイントとしての機能をゆるやかに失いつつあるから、ことさら嘆かわしく言上げする必要もなく──いやいや、さらに遡れば問題は明治の国家神道体制などではなく、古代の神祇令による神祀りの制度化であることをまず先に言うべきであろう。ミシャグチの神は縄文の神格である。古格の神は祀られることこそ欲してはいるものの、社に対しては欲望は見せない。仏教寺院建築のモダニズムに魅せられた祭祀者たちの宗教的本能とでもいうものが、社の建築化に向かわせるのである。
常識的に言うならば、現在ミシャグチ神を祀る場所自体にも「神社」という名称を与えざるを得ないが、その形態はあからさまに奇異である。まず稲荷の社のような小ぶりの建物の周囲の四隅に、諏訪社の御柱に見られるような素朴な──電柱のような──柱が立てられている。しかし長野というミシャグチ神の本場にあっては、これは取り立てて奇異ともいうべき風景ではないようだ。

長野に来て、ミシャグチ神に会おうとしているのである。
このカミの鎮座する特段のポイントがあるわけではない。この地域の代表的な神格である諏訪社は長野を統べるような表情で信濃の真ん中に鎮座ましましているが、要は出雲方面からの侵入者である。この諏訪社の成り立ちを見ていると、縄文の神々は、システマティックな軍事システムを持って侵入してきた出雲族に恬淡と服従したような風情がある。おそらく、支配=被支配という観念すらなかったのではないか。なぜこのような与太を飛ばすかというと、諏訪社の祭祀システムの中に、ミシャグチ神に奉仕する人々の祭祀が入れ子のようにすんなり嵌め込まれている様が見て取れるからである。おそらく当初から、ミシャグチ神の統一的な、精神的に高度な祭祀地点などというものは存在しなかったのであろう。そのような必要もなかったのであろうし、そういう抽象度の高い、あるいは政治的な思考方法は存在せず、ただ空間的に、または観念的に、このカミは縄文世界を支配していたと思われる。諏訪社システムに組み込まれたミシャグチ神奉仕者である守矢一族の奉仕する社は、形式的にはその背後に立つ山を神体山として祭祀しているが、いかにも後付けの臭う仕儀である。そこらの村中にあるミシャグチの社を探ると、縄文期の石棒がそのまま御神体になっていることが多い。山はもちろん豊穣をもたらすカミの住まう場所ではあるが、家の仏壇に供物を捧げるが如くの素朴な石棒祭祀の方がはるかに古格な祭祀形態であることは当然であろう。

神長官守矢史料館に足を踏み入れると、


……という記述で途切れているメモが、突如起動するようになったPCからサルベージされた。だいたいこちらを更新しなくなったのは、このPCが心室細動を起こし、こと切れたからなのである。ひそかに本日、様々な移行作業などしつつ、地味に更新。もういい加減誰も読まなくなっておろうから、初心に返り神妙に勝手にバカ話を書いて行かうとぞ思ふ。いや思う。
まあどうでもいいが、守矢史料館の話を補足しておくなら、この諏訪社に奉仕し続けた一族、守矢家の伝承に見る野蛮で血塗られた日本の古代祭祀をここを訪れてみなさん是非確認していただきたい、と願うのみである。神道が死穢を忌諱するなんてのが惰弱な平安期国風ぶりであることが、ここの展示を一瞥するだけで了解できるのです。私は靖国の話になるとこの史料館の話題で周囲を煙に巻くという手に出てしまうのだが、神道の遣り口は巷間言うところの「鎮魂」ではなく荒御霊が騒がぬためのタマ鎮めであり、その原初的な形態を見てみれば、いかに国家というものが常に戦死者を畏れているかが分かろうというものだ。そして彼ら戦死者の列は縄文の昔から現在に至るまで、自分たちを死地に赴かしめた「モノ」を延々と呪い続けている。