博覧の季節

剣持勇の諦念のようなものを知るには、私などはまだ半端な人生経験を経ているに過ぎない──といった感懐にとらわれる。彼のデザインした籐細工の椅子を前にして、つくづくと思うのだ。

彼が自らデザインしたソファの上でその命を絶ったのは、1971年のことだが、その前年はつまり、大阪万博の年であった。彼は戦後のインテリアデザインの巨匠であり──と言うよりは、「インテリア」なるジャンルに作家性を標榜する「デザイナー」という存在が必要なのだという社会的認知を得るために奔走した苦労人として、次第に豊かになってゆく社会風俗の中でその身を否応なく周囲にせり上げられ、戦後日本社会において存在感ある人物となったのである。それゆえ当然ながら、大阪万博という一大国家的行事の一翼を担うべきポジションにも位置していたのであった。

私より下の世代に向かって「万博」を語ろうとする場合、常にある種の困難がつきまとう。「大阪万博は単に博覧会の一種なるものではない」とつい言ってしまうと、たとえば「私たちの世代のエポックはつくば科学博ですが、何か?」と怪訝そうな視線が返される。力んでみたってたかだか巨大イヴェントでしょう、というわけである。そうには違いない。しかし小学生が学校を休む理由として「万博に行く」というのが全国的にごく公然と許されていたのですぞ。いや、学校を休むには相当な大義が必要だった時代なのである。東京オリンピックが戦後世界秩序への復帰を宣言するイヴェントならば、大阪万博は一等国にふさわしい国力を保持していることを世界に認証してもらうためのまなじりを決したイヴェントであり、事の成否がこの国家の命運を握っていると、そのことに対する反発も含め、ホントにこの国のほとんどの民は信じていたのである。むろん小学生の私も信じていた。まことに純情な時代だったのである。

剣持がそのインテリア・デザインにおいて標榜する「ジャパニーズ・モダン」という概念には、実のところ理論的な背景はない。言ってしまえば洗練を日本的に突き詰めよ、というだけのものである。といって、この事実自体は非難するにはあたらない。この国に古来から残存する構造物のあれこれには、もとより力学的緊張感をもって装飾に代行する手法が連綿と続いており、御承知のように過剰な装飾を旨とする美学と陰に陽に闘争を繰り広げつつ現在に至っている。モダニズムの冠はその、一方の美学にストンと被さる。要は洗練度の問題である。剣持は厳格であった。厳格であることが美的な基準を押し上げると信じていたのである。

まだ小学校低学年だった私が足を踏み入れた大阪万博の会場は、子供心にも無秩序な、野放図な誇大妄想が放水機でぶちまけられるような、なんと言ったらいいか、場内を歩き回る誰かに話しかけても、皆うわの空の生返事で駆けてゆく、イメージとしては、巨大なエンジンが虚空で常に高速の唸りを上げてるような──言ってしまえば、場内の全てが「発狂」しているような──異空間だった。パピリオンはそれぞれ「世界一」やら「日本初」やら「最大」やら「最小」を抱え、入館しない者は非国民であるかのような勢いで獰猛な人寄せパワーを発揮し、様々な言語で金切り声を上げていた。逃げまどう子どもたちの脳内は沸騰し、原色の直截なイメージは脳内に飽和点まで詰め込まれ、会場から逃れ出ても、それらの呪縛から逃れることはできなかった。(余談ながら、今もである。)

そこには、洗練などというものは何もなかった。厳格なものは何ひとつ存在しなかった。無定見な未来像が花見の宴を謳歌し、泥酔していた。
剣持は、万博の前年、「日本万国博覧会協会ディスプレー顧問」という公職を依嘱されている。これがどのような役目なのか、どのような権限を持つものなのか、私は知らない。開催期間中、彼は朝日新聞に「私のみたEXPO`70──エネルギーの発露」という、タイトルからして当事者意識の薄そうな文章を発表している。どうしても私には、狂騒に対峙して腹の底から冷えびえとした感覚を抱いている彼の姿が見えてしまう。
その姿がさらに印象強く見えてくるようになったのは、先に森美術館で開催された「アーキラボ展」に足を運んでからである。会場の一隅の暗闇で万博の記録映像を延々流しているのをぼんやり眺めながら、あの狂乱がメタボリズムの宴であったことを改めて認識し、どう考えてもそこに、単純であることのみが美であるという素朴派モダニズムの居場所はない、ということに気付かされたのだった。

剣持の自死と諦念と万博を一直線に結ぶのはいささか勝手に過ぎるのかもしれないが、まあ、博覧会というと、最近はこのことばかりに想念が至るので、許されたい。
──そんなわけで小学生の私はというと、お約束通り、脳内沸騰するあまりに、広大な会場内で迷子になったわけである。男子たるものそのような屈辱に耐えうるものではない。優しそうなコンパニオンのお姉さんが腰をかがめて近づいてくる度に私は脱兎の如く逃げ出した。その後も「迷子センター」の看板の前で逡巡した後、自首する勇気が出ず、会場を放浪するストリートチルドレンと化した。もうこのまま万博の子になっちまおうかなどと埒もない妄想の一方で心細く、たまさか私の手中に託されていたカメラを武器に、会場のあちこちを撮影旅行に出かけた。「一心に写真を撮る迷子」なんか普通いないだろうが、どだい無理がある。結局は逮捕、連行された(作品は現存)。
しかし考えてみれば、自分の意志で写真を撮り始めたのは、このときからではなかろうか。
いやそれはともかく。

結局剣持が万博に残したのは、ごく地味なキッコーマン館のレストランインテリアを除けば、会場に置かれた切れ味の鋭いデザインのベンチだけである。そのモダンなベンチに、迷子の私はひとり茫然と腰掛けていたのをよく憶えている。

ジャパニーズ・モダン―剣持勇とその世界

ジャパニーズ・モダン―剣持勇とその世界