高級昼寝館

午後、東京芸大美術館まで赴く。 『工芸の世紀』という展観が昨日から始まった。

明治期の日本の工芸は、日本画や洋画に比べて忘れ去られたような感があるが、そのマニエリスティックな造形力は実に凄まじく、ウィーンやパリ、シカゴで開催された当時の万国博覧会では堂々たる日本の主戦力だった。当時の工芸作家たちの造形への異様な執着は、現今の海洋堂食玩アキハバラで流通するフィギュアの三次元執着に繋がる回路を確実に有している。要は「芸術」への意志ではなく、再現への執着、また技術のための技術の追究というある種の倒錯の臭いである。鈴木長吉の『十二の鷹』の圧倒的な造形力を見よ。そしてそこに漂う時空との隔絶感──ある種の「脈絡の無さ」──を見ていただきたい。全く自己完結した透徹した技術力は、アキバの作り込まれたフィギュアを包む、「風俗」とは隔絶した透明感と相通ずるものがあると思う。

展観のあれこれで疲弊し尽くし、呼びかけに反応しない人形と化したY助教授に様々言い含め、隣の東京国立博物館に赴く。3年振りに長谷川等伯の国宝『松林図屏風』が特別公開されているので、足を延ばしたのである。以前汐留の高層ビルから驟雨に煙る東京を見下ろしてこの絵を想起したことを書いたが、実際脳裏から去ることのない図様である。記憶の中で年毎に印象が強くなってくるので、今日久しぶりに見たら意外に小さいのに驚いた。頭の中では実物の1.5倍ぐらいの大きさだったのだ。

特別公開なので、この屏風の置かれた部屋だけ照明がない。薄明かりのなか、霧にまかれた松林がうっすら浮かんでいる。行き交う人も少なく、向き合わせに置かれたソファに座ると、たちまち眠くなる。日本一贅沢な仮眠所である。てきめん夢を見る。全く絵と関係ない。オッサンが何か叫んでいて、何か怒っているようだ。それで私は仕方なく立ち去るというだけの夢。

国宝の前での短い昼寝から醒め、もう一度絵の細部を観察し、立ち去る。まてよ成程うーむあのオッサン、等伯だったのかも(しかし場面は実家の前)。