ただ刻んでいた男のこと

渋谷の松濤美術館に赴く。「谷中安規の夢」展を参観。

展観のサブタイトルに「シネマとカフェと怪奇のまぼろし」とある。昭和初期の彼の作品には版画という表現が本質的に備えている洒脱な芸術性そのものが独自の幻想性と相俟って強く感じられ、30年代の空気感が濃く漂う。このサブタイトルはそういった意味ではその時期の彼の表現には正しく当てはまるのだろう。
洒脱、というのはいろいろ誤解を招く言い方かもしれないが、表現そのものが大胆な省略とコントラストによらざるを得ない版画という芸術は、それがどのような「泥臭い」ものであっても、どこか対象に対する軽妙な観察力を最後の一刀まで保持しなければ、ただの工作めいたものにしか見えないのではないだろうか。実際私には、版画って、工作にしか見えないものが多いです。

谷中は戦前から内田百鬼園翁や佐藤春夫に愛されて装丁や挿画を行うなどしており、普通に生きればごく幸福な版画家になれるはずだったと思うのだが、終戦直後のある日、空襲で焼け出されて自分で立てた掘っ立て小屋の中で、ことんと栄養失調で死んでしまった。その事実自体は全き悲劇だが、生涯は悲しいユーモアに満ちて、見事に完結している。百鬼園翁は彼のことを「風船画伯」と称して愛していたというが、その言だけで彼の人となりを知るには充分だろう。こりこりと孤独でやさしい悲しみを刻みつける音が聞こえるような、そんな作品ばかりである。溜息が出た。

オレもこの時代に生きてたら、おそらく安規みたいな最期だろうなァと呟くと、いや貴方でしたら終戦前にもうアカンでしょうと同行者に
指摘される。正しい。