唯物論の夜

日暮れ方であるが、三鷹禅林寺近くである。
寒風吹きさぶ人影少ない寂しい街路、得体の知れぬ薄暗い店の奥に古びた腹話術人形が投げ捨てるように置かれているのを脈絡もなく目撃して(あたりまえだ)、妄想スイッチが入るようでなんともいえぬ。出来過ぎではないか。
まあその、妄想ぐるぐるはいいとして、年明け早々の弔事で禅林寺に向かう私だったが、中央線文学史跡としては定番のかの寺、門前に立つと、上京当時訪問した記憶とはいかにも大違いで、なかなか暫し茫然たる私である。今出来の唐風の楼門がご大層で竜宮城の如く、なおかつ併設してある大きな斎場は全く宗旨に関係なく豪快に葬祭業者に賃貸ししているようであった。
竜宮城の横で営まれるのは、徹頭徹尾唯物論者であったある老詩人の、それも九十歳を越えての往生の弔いである。取り立てて言い募るような縁もないその老詩人の葬儀に私が出向いているのは、わずかな義理のために過ぎないのだが、その和やかな、老人たちの集会のような葬儀を仕切っているのがある唯物論者の集まっている党であったために、結局は唯物論者における葬儀の意味を観察するために行ったような仕儀となったわけである。とはいえここに言挙げするような突飛な何事も生じるわけもなく、予行演習のような淡々とした段取りに付き合っていると、何やら文学史上に横たわる古めかしい「詩人」などという純粋概念自体の模擬葬儀に付き合わされたようなケッタイな感懐を抱かされた。
古めかしい詩人──というイメージを反芻していると、横滑りして「古めかしい写真家」というフレーズが脳内に浮かんでくる。そんなものが存在しているのかどうかは知らないが。

ところで植田正治は私にとっては同時代の(需要と供給との関係において)写真家であったが、なおかつ微妙な写真家でもあった。私の「古めかしい写真家」の原像かもしれない。先日写真美術館での回顧展を展観してから、彼の写真への評価がなかなかうまく自分の内部に着床しないのである。70年代から80年代にかけては森山大道その他の先鋭化した写真意識がカメラ持ち各々を前のめりに引っ張り続け、微動だにしない植田のスタンスは退屈に見えたのは確かである。そのモダニティーは当時、あまりに狙いすぎた観があった。急いで付け加えるがこれは当然子供(私)の皮相な感想であり、とはいえ私一人が独自にこのような感を抱くわけもなく、当時の写真を見る目一般にそのような空気は漂っていた、といっても誤りではなかろう。
ひとつにはその長い活動の、時期的な問題がある。戦前にシュルレアリスムに出会いその前衛的な表現を受容したまま長い戦後を生きた植田は早い時期に大家化してしまい、本体持っていた孤独感やパーソナルな感情表現まで大家的な位置で評価されなければならなかった。これは写真というメディアには辛いことで、本来「写真の大家」なるもの自体珍妙な悲劇を引き起こす称号といえるが、そのことには立ち入らないでおこう。ともかく大家であることについて植田の責任はない。いまこの時期に回顧展を行い、ようやく生涯を俯瞰できる形に、平行に作品を並べることができたことが、要するに歴史化することが、彼の作品には必要であったように思える。私の微妙さは私自身の問題に過ぎないので別問題だが、しかしそれにしても、戦後の写真史と切り離された形で見ない限り、どうにも位置取りは難しい。面白いことに彼自身は鳥取という地方にあって「切り離されて」いた表現者であり、私たちが勝手に同時代化していただけなのである。ようやく定位置を得、私たちも納得して本来の価値──古典的な──に接近できるようになったのだろう。植田にとってはいずれにしろ、勝手な上げ下げは迷惑な話に違いない。
そうだ、忘れぬようにこれだけは書き留めておくが、写真美術館での展観の劈頭に掲げられている、青年の頃の彼のプリントの一枚、書籍の間にチューリップの花が何気なく置かれている静物画、この一枚は、驚くべき印画の美麗さである。妙な言い方だが、花弁が薄いチタニウムで出来ているような、何とも言えぬ繊細な仕上がりである。またさらに驚くべきことにこの一枚は、今回の図録には収録されていない。いや、むしろ喜ぶべきかもしれない。

さて唯物論者の通夜(そう、通夜は必要だったようだ)は当然ながら焼香もなく、淡々と終わった。寿司などつつくのは遠慮して早々に引き上げ、寺の裏の古書店上々堂を覗いて貸し切り状態でじっくり検討、二、三購う。周囲でこの店だけが煌々と灯りをきらめかせている。古書店だけが目立つ夜の街とはしかし、いかがなものか。金を払っている間、大きなガラス窓を通して店内をじっと見つめる影があったが、扉を開けると人影もない。妙な街だ。