川土手

福井芳郎という画家については、私は全く知るところがなく、また特にこれから知ろうとも思っていない。


目立った仕事を残したわけでもなく、また画壇で成功したとも思われないこの画家の名を私が記憶しているのは、昭和20年8月、広島市西観音町2丁目角に陸軍の衛生部隊駐留所が存在したという、あるメディアに掲載された元衛生兵であった彼の証言が、もっぱら私にとって不意を衝かれるような新事実であったというだけの、その画業とは実に遠い、単に個人的な事柄からである。

その場所というものは端的に言って実家の向かい側なのだが、その事実に関するあれこれはほぼどうでもよいことで、問題はその事実を知ってから数年経った昨年、帰省した真夏の暑い日、実家の近くの書店で彼の絵を数枚集めた500円ほどのパンフレットを手に入れたことだった。


その名前の記憶から何気なく買った、自費出版と思われるその粗末としか言いようのないパンフレットを持って、炎天下に書店を出て所用を済ませ、ぶらぶらと観音町土手の公園に至り、たまらず日影で休憩がてら、そのパンフレットを開いた。
中には彼の詳細な証言と共に原爆記録画が数点掲載されていただけだったが、私は、ページを開いたまま、しばらく唸り続けることとなった。
つまり、彼は我が家の前で被爆し、瓦礫の中を一人生き延び、我が家からたったいま私が歩いてきたばかりの道のりをそのまま、血だらけになってよろめき歩き、まさに私がいま現在座っている、この、観音町土手の公園地点に至ったのである。


彼の証言をそのまま引用してみよう。


──ようやく川土手にたどり着きました。そこでは幼い子どもたちが、全身火傷で、泣き叫んでいました。光と熱風で一瞬に吹き飛ばされたのです。見るもあわれな姿です。「お母ちゃん」「お母ちゃん」と、火のつくように泣きわめいています。赤く皮は剥がれ、動けないままにただ泣いています。若い女教師も、虫の息で、「兵隊さん子どもを助けてください」と悲痛な声をふりしぼって、必死にもがいていましたが、どうするにも手のほどこしようもありません。いっときの後引き返してきた時は、みんな死んでいました。


上記の証言と共に、『幼子(観音町土手)』と題された彼の絵が掲載されている。炎天下の音もない静かな白昼、背中の方が冷え冷えとしてくる。ベンチに座る私の周囲に、半身を地中に埋め、泣き叫ぶ子どもたちを視る。いたたまれず立ち上がって去ろうとした私は、自分がかつて「兵隊さん」であったような気がしてきたのだった。