キミヨシとわたし

太平記』巻三十一の「新田起義兵事」の段に「故新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興・三男少将義宗・従父兄弟左衛門佐義治三人、武蔵・上野・信濃・越後の間に、在所を定めず身を蔵して時を得ば義兵を起さんと企て居たりける処へ、吉野殿未だ住吉に御座有し時、由良新左衛門入道信阿を勅使にて、『南方と足利義詮と御合体の事は暫時の智謀也と聞ゆる処也。仍節に迷い時を過ごすべからず。早く義兵を起て、将軍を追討し、宸襟を休め奉るべし。』とぞ被仰下ける。信阿急ぎ東国へ下て、三人の人々に逢て事の子細を相触れける間、さらばやがて勢を相催せとて、廻文を以て東八箇国を触廻るに、同心の族八百人に及べり」とある。

この「由良新左衛門信阿」は入道とあるからには僧形なのだろう。信阿はその法名と思われる。後に矢口の渡しで義興と共に大田区原住民のセコい策略にはまって上記にも出てくる新田義興と共に討たれ、ニコタマ高島屋の前(の兵庫島)に屍体が流れ着く由良新左衛門と同一人物なのかどうかまでは私は知らないが、ともかく僧形であることがこの場合、南朝の密使として東国の反乱勢力をアジテーションするため東海道を移動するには格好のスタイルであったに違いない。
由良という一族は、この記述からも南朝勢力と極めて密接な位置にあったように思われる。武家の姓としての由良氏はまぎれもなく新田氏に寄り添って活躍した履歴を持ち、讃岐や越前あたりに勢力を扶植していた形跡もある、江戸期の旗本まで続くいわば出自の明らかな一族だが、こうした経歴からも信阿のような南朝勢力の深奥に食い込んだ(と思われる)人物をその中から出したのは容易に理解できる。

以上、余談である(←司馬遼太郎風)。
四方田先生の『先生とわたし』を「新潮」誌上で拝読し、由良先生の出自が奈良の山奥、丹生社の神官の家だと聞き及び、言うまでもなくそこが南朝勢力淵叢の地であることに、この姓の由来を見てもいいのだろうと思う。当然ながら先生の厳父哲次氏の大著『南北朝編年史』には没落した生家への思いが込められているだろうが、あるいは信阿の一族の誰かは、その後の新田一族敗戦の混乱のなかでこの地に身を隠したということもあるだろうか。

というか、余談だらけである。

友人のF氏は高山御大門下であるから、由良先生の孫弟子に当たる。旧都立大時代、由良氏を(四方田氏によれば)嫌い抜いていた篠田先生が健在の時代であるが、確かに高山御大は英文科研究室(大部屋である)に篠田氏が在室の場合、決して同室しなかったとはF氏の談である。学者の対立というのも弟子に及び、時に激烈なものである。(高山御大はおそらくもっぱら自己防衛のためにそうしていたのであろうが。)

また文中、四方田氏が韓国留学の際にハスミ先生に冷たくあしらわれるシーンがあるのだが、いかにも先生は由良的なるものには冷淡であろう事、想像に難くない。
しかし面白いことに、日本美術研究者であったハスミ先生の父親は、前記の哲次氏と交流があった形跡がある。東大の総合研究博物館にはハスミ先生の御尊父旧蔵資料がデータベース化されているが、その中に哲次氏の元からもたらされたと考えられるものが存在するのである。哲次氏旧蔵の美術作品は一括して奈良県美に寄贈されているが、寄贈されたそのコレクションの性格からしても、十分交流を伺わせる蓋然性に満ちている。興趣は尽きません。

さて由良の入道は、関東に入って新田家の御曹司を焚きつけ、檄文を持って各地の武士達を扇動して廻る。子孫かどうかは知らないが、四方田氏書くところ、由良先生も似たような知的アジテーターである。由良ゼミの成員はみなそのアジテーションに幻惑されるかの如く師の跡を追いかけてゆく。まあ私もかつてその余慶に与ったような気がしないでもない。ともかく、もはや懐かしい思い出の範疇の話である。どちらかと言えば今はむしろ、その晩年のエピソードの方がリアルな問題として考えさせられる。アカデミーなるものの外にあることで失敗することがなかった澁澤氏と、アカデミーを最初から存在しないもののように嘘っぽく生きた種村氏と、ガチに行って傷つき、その繊細な精神を痛め続けた由良氏と。
唐突ですが、まことに文人の時代は過ぎ去っていったなあ。

余談ついでに書いておくと、上記の『太平記』巻第三十一を読み進めると、由良新左衛門信阿のアジテーションに呼応した関東武士の名が列挙されるのだが、面白いことにその中に四方田の姓があるのだ。奇なるかな、という落とし話にて失敬。