中原淳一と内藤ルネの間に横たわるもの

それは「カワイイの河」である。

中原にとって、少女というものはあくまでレディへの里程標の中に想定されているものだ。彼の創造する少女たちの表象するものは、常にある種の完成像を希求する何者かである。目指すものは「たしなみのある女性」であり、「結婚」であり、「母」である。自分は直線的に向上する少女達を教導すべき存在であるというのが、中原の躊躇のない自己規定である。戦時体制によって全否定されてしまった自らのたおやかな美学の復興を新日本の建設と連動させるのが、彼の仕事のコンセプトであった。「たしなみ」なり「結婚」なり「母」なりが、愚劣なカーキ色の男性原理の生産力を保証するために使用されるのではなく、美そのものとして倫理的に完成すること──その美学と芸術的表現への意欲との連携が、彼の仕事の根幹を成していた。
試みに、終戦直後に彼が編集していた雑誌『ひまわり』を繙くと、彼がテキストを担当していた(イラストではなく)ページのほとんど全てが「これからの女性はどのように暮らして行くべきか」、あるいは「どうすれば美しい生活が実現できるのか」という探究の実践である。これはその後の雑誌『それいゆ』『ジュニアそれいゆ』においても基本的には変わるところがない。
ところで、『ジュニアそれいゆ』は、雑誌にありがちな購買層の高齢化に伴って、『それいゆ』ユーザーの下の層を狙って創刊されたものである。『それいゆ』では第26号(1953年)のカットで起用された内藤ルネは、同年に創刊されたこの雑誌では創刊号から起用されている。そして、両人の意図の有無にはかかわらず、「女性のくらしを新しく美しくする」と題された『それいゆ』とは違った受容が、『ジュニアそれいゆ』においては為される。それは例えば、倫理性を脱却した純粋な「カワイイもの」を希求するメディアとしての雑誌──とでも言うべきであろう。中原は『ジュニアそれいゆ』においても、少女たちを教導する師としてのスタンスを崩さない。その一方、当初は『それいゆ』において小さなカットを提供しているだけの存在であった内藤ルネは、『ジュニアそれいゆ』においては第3号で人形のページを担当し(当時創作の手作り人形をその製作用の型と共に掲載するのは定番であった)、さらに4号では絵物語のページも担当する事になる。徐々に人気を博している様相が、その後の掲載内容の展開からも見て取れるのである。
第7号の目次を見ると、中原の担当記事は、「お部屋を工夫しましょう」「ジュニアのお正月のきもの」等であるのに対し、内藤のものは「人形・トランペットラインのスウェーター」「ベレエ」と屈託がない。中原があまりの過労のため体調を崩し仕事量を落としてゆくのと反比例するように、純粋なカワイイものに向けた内藤の創作力は力を増してゆく。そして『ジュニアそれいゆ』休刊に至る最後の9冊は、刊行する雑誌の表紙を一貫して描いていた中原からついにバトンを渡されるに至るのである。雑誌の表紙イラストは中原が常に心血を注いでいたものであった。象徴的にも思えるが、中原自身は時代の推移を体感しつつ、自らはもはや少女たちの師としての「淳一」像から逃れる事はできなかった。彼は「カワイイ」に倫理を添えるスタンスしか示せないのである。
内藤はその証言の中で、中原について「先生はひとたびセンスを認めたら、その人の思いのままに仕事をさせる方針だった」と述べている。それは言い替えるなら、「復興」から「消費」へと移り変わる社会の推移を中原が素早く認識し、そのような時代にふさわしい表現者を使う編集者としての嗅覚があったからこそ為し得た技であると言えるであろう。『ひまわり』『それいゆ』『ジュニアそれいゆ』あるいは『女の部屋』という彼の関わった雑誌は、ほぼ全ページが彼のディレクションによるものと言ってよい。内藤は中原の編集者としての嗅覚があったからこそ、「カワイイ」へと向かって行く時代の大きな変革の中で、自由に活躍できるそのようなフィールドに放たれたと言える。中原は自分の仕事への自信と矜持、そしてその限界への理解も、冷静に保ち続けたのである。

そして、中原の早すぎる死後、時代は一気に「カワイイ」へと疾走し始める。内藤ルネですら、もはや追いつけないほどに。