4月の展覧会紹介


『生誕100年 ジャクソン・ポロック展』『原弘と東京国立近代美術館 デザインワークを通して見えてくるもの』@東京国立近代美術館


http://www.artandscience.jp/column/archives/1574


です。
このなんとも非対称的なお二人が並んでいる近美の不可思議な光景。なかなかケッタイです。

展覧会紹介などをひとくさり

この、2年間ブログを放置するというのも如何なものかとは思いますが、要はSNS流行りの昨今にはよく見受ける事象のようでありますね。


しかしながら。いくらなんでも保守ということで、このところアートアンドサイエンス(株)さんのサイトに寄稿しております展覧会紹介のコラムへの導線を貼りつけておきます。


・『メタボリズムの未来都市展』@森美術館
http://www.artandscience.jp/column/archives/554


・『杉浦康平・脈動する本:デザインの手法と哲学』@武蔵野美術大学美術館
http://www.artandscience.jp/column/archives/684


・『渋谷ユートピア 1900-1945』@渋谷区立松濤美術館
http://www.artandscience.jp/column/archives/726


・『今和次郎 採集講義』展@パナソニック 汐留ミュージアム 【現在開催中!】
http://www.artandscience.jp/column/archives/930


今後も掲載毎に更新致しますので、よしなに願います。

木村伊兵衛の動態保存

多忙ゆえ数行に留めますが、もう会期末もいいところ、明日と明後日は東京都写真美術館の「木村伊兵衛アンリ・カルティエ=ブレッソン」展に是非ともお運びをと取り急ぎ懇請、いやこの期に及んでゴニョゴニョの相も変わらぬ悪癖は別途誰かに向かって謝罪するとして、なにゆえ足を運ぶべきかはこの展観の図録にそもそも原因あり、いやそりゃ図録云々の前に行かなければ何事も始まりはしないのですが、ともかくも会場には終盤、ほぼ出口の手前にこの展観の実に驚くべきキモが仕掛けてあるのでありまして、なんとまあそれが如何なる故にか収録されておらず、私などは帰宅後かの図録打ち開いて胸かきむしり苦悶の思い、他人は知らず、私が会場で驚いたのはそう、伊兵衛翁の「本郷森川町」その他の作品のコンタクト・シート、つまりベタ焼きがどーんと展示してござい、という次第にて、つまりこれは写真家の創作の秘密、その思考と手つきをあっさりと満天下に晒しているわけであり、写真家が如何なるシークェンスでいかなる場面を切り取り、何を取り上げ何を捨てているのか、言うなれば剣豪が対戦相手を斬り捨てる一瞬の間合いが克明に連続写真で記録されておるようなもので、恐ろしいほどに様々な事実が読み取れるものか、かつて見飽きるほど見た作品の前後の空間と時間が脳内で一挙に流れを持って広がり、音や匂いまで感じ取れるような錯覚といえば大袈裟か、ともかくもスナップという写真行為が生み出した傑作の創作プロセスがこのベタ焼きで明らかになるわけでして、およそ写真と言うものに関心を持つものであるならば、この御開帳に立ち会わないでどうするのかという次第にて、取り急ぎ御一報、怱々不一。

牧島如鳩の居場所

じつに当然のことですが宗教画というものは一定の様式を踏むものであり、そして往々にしてそのステロタイプな様式の反復が時間的に集積されるなかから、なにものかの啓示を含む特異な図像が立ち上がってくるのものであります。反復され消費されるうちに、その様式からある種の微細なズレが生じるかの如く聖性を帯びた逸脱が時として成就する。しかしそれは宗教画の持つ本来の機能からすれば、想定されざるミスのようなものかもしれません。様式の固定はその宗教の普遍性と強固な教義が保証するものだからです。


たとえば仏画においては古来その描かれる要素それぞれに厳密な儀軌が定められ、図様にはごく単純にして厳密なマニュアル化が施されているにもかかわらず、そこからの微妙な逸脱に奇妙な魅力、あるいは神秘性が匂い立つのであって、つまり単なる線と色との構成に留まらない宗教的な成果は儀軌からの「ズレ」と測定されるものから往々にして生成されます。そこは近代の美術観から見れば「画家の個性」として読み取られるものと重なるのかもしれません。儀軌を越える画家の芸術的感性がオリジナリティ溢れる作品を生んだというストーリーですね。この正面切った正しさを持つ理屈は無論強力なもので、特に色めき立って反論することもありません。が、ここにそういう近代的自我論議をぶっ飛ばす画家が現れたのである。って昔から現れっぱなしで私が知らなかったに過ぎませんけども。


牧島如鳩はイコン画家としてそのキャリアを開始し、終生ハリストス正教の信仰を保持しつつ自らを布教者と規定していましたが、その内面世界はあたかも現在大阪生駒山麓に無秩序な広がりを見せる民俗的宗教集落の如くであります。イコンも描くし仏画も描く。いや、こういう表現は正確ではない。仏画としてのイコンも描くし、イコンとしての仏画も描くのです。横たわるイエスは涅槃図の相貌を帯びているし、千手観音の脇侍たちはセラフィムの様相を呈する。比喩ではなく、そのような画像が存在するのであります。まあ如鳩にとってセグメント化された個々の宗教は至高の存在がこの世に示現する際の様々な意匠に過ぎぬもののようで、このあたりも現今の新興宗教の開祖の言動や生駒山麓的な現象と近似性が感じられます。つまりそのこと自体はとりたてて独自なものではありませんが、後半生に至って直接霊的啓示を受けて描かれた作品群にはやはり神秘家だけが持つ凄みが感じられ、画面から発する霊気にはただならぬものがあります。彼が日本画家の父から受けた基礎教育と、イコン画家となるべく受けた直截な油絵教育のアマルガムが、その信仰のアマルガムともいうべき内面世界とさらに複雑な反応を経た結果、産み出されたものは美術史的思考による分類を拒否するなにものかであり、つまりは現代に甦った純粋な宗教画そのものでありましょう。


私はこの時として泥絵のような、江戸期の洋風画のような、明治期の油絵歴史画のような、素朴派のような、アウトサイダー・アートのような、またそのいずれでもないような不可思議な色合いの作品群を前にして、如何に分類であるとか歴史的展開であるとか手法であるとか、そういった分析的思考が無力であるかを感じざるを得ないわけです。これはかつて高野山霊宝館所蔵《阿弥陀聖衆来迎図》を拝見した折にも感じたことですが、結局簡単に言えばこれら宗教画の出来は異界への参入手段としての優劣を競うので、先にも言及したある種のズレを記述するための用語を我々は持たない。いや、布教者としての如鳩は延々自らが如何に霊的な啓示を受けて描いたかを述べるでしょう。しかしその作品は彼の言葉自体も超えた様相を呈して啓示を発する運命にあるわけです。作品が作者の所有を超えるのが、宗教画の前提でありましょう。


どうもこのあたりから、おそらく言葉というものは堂々巡りを開始することになりそうです。実物を検証する余裕は、全く残念ながらこの週末までですので、あれこれはまず見てからだ。さあ以下まで走れ走れ。

http://mitaka.jpn.org/ticket/090725g/

唐突に告知

御無沙汰しております。


……「移設後は更新を頻繁に」云々、斯様な嘘吐きも世に珍らかと申せましょう。


で、本日は、人知れず地元で進行する陰謀を白日の下に晒します。

[パルコ調布キネマ]20周年企画
   大 映 傑 作 選!

「水澄み、時代劇、現代劇に最適なり」

日本映画株式会社によって調布に設立された撮影所は、昭和17年、大日本映画株式会社・東京第二撮影所(のちの大映東京撮影所)となりました。日本映画黄金期に、大映はここから多くのスターを輩出し、映画史に残る名作を製作しました。そのような調布にゆかりの深い大映から、選りすぐりの傑作6本を、調布キネマ開館20周年を記念して一挙上映いたします。

そういうことで上映作品ですが、

・『おとうと』市川崑(1960年)。宮川一夫キャメラマンの例の「銀残し」技法画像の最初例が見られますね。渋いです。川口浩は15歳に見えません。
上映日:5/30、6/4。


・『近松物語』溝口健二(1954年)。個人的には溝口作品の中でも必見の名作と思います。代表作、という気分だなあ。これも宮川キャメラ。よく誤解されますが、本作では甲斐庄楠音は衣裳考証を担当していません。
上映日:5/31、6/5。


・『夜の河』吉村公三郎(1956年)。「女性映画の巨匠」という不思議な呼称を持つ吉村監督の初カラー作。宮川キャメラですね。山本富士子はこの1作で大スターとなり、それゆえ結局は大映を離れることになってしまいます。以て大映倒産の一因と言われるわけですが、そうなると本作は皮肉な大ヒット作ということになりますな。私は未見です。
上映日:6/1、6/6


・『雨月物語溝口健二(1953年)。御紹介するまでもありませんね。ゴダールをして「見始めて5分で涙が出る」と言わしめた美しさ。宮川キャメラ、甲斐庄衣裳、早坂文雄音楽ときたもんだ。で、これも誤解されがちですが、美術監督は水谷浩ではありません。伊藤熹朔。
上映日:6/2、6/7。


・『妻は告白する』増村保造(1961年)。東大法学部卒のエロい巨匠。これを言うと激怒する向きもあろうかと思いますが、私にとって増村監督は大映テレビそのものです!(愛の告白とお受け取り下さい)……いや本作も未見なので感想はいずれまた。
上映日:6/3、6/8。



・『羅生門 デジタル・リマスター版』(1950年)黒澤明
まさにトリに相応しい作品です。
何らかの方法で、今まで本作を御覧になったことのある方に申し上げます。私は先日のデジタル・リマスター版短期公開の上映に駆け付けて、茫然たる思いを味わいました。我々が宮川キャメラがどうのこうのとエラソウに忖度していたのは、何であったのか。この画面こそが、彼の表現したかった絵である。
いいですか。ちょっとアレだけど、こそっと見て下さい。

むろん右が修復後です。マチ子の皮膚が画面から迫ってくる。詳細は省きますが、決してこの修復は「作った絵」ではありません。あくまで修復です。劣化したプリントを見ながら我々は様々な感想を得ていたわけですね。モノクロの場合、カラーの退色に比して(傷などを除いて)大した劣化はなかろうと我々シロウトはなんとなく感じているわけですが、このリマスター版を見て私は仰天してしまいました。──三船敏郎が山中でのたうち、がっと彼の背中がアップになるショットがあります。なんとその背に蛭がぬめっているのがわかり、私は戦慄すら覚えたのでした。
上映日:6/9(火)〜6/12(金)


なお、当時のシナリオ全作品分を展示というオマケまであります! これで各作1,000円ですぞ。まあ、通って下さい。


……ところで、上映時間なのですが、全回朝10:20からの1回のみ! 覚悟せよ! 

http://www.cinemabox.com/schedule/chofu/index.shtml

無駄な名演、とその他


知人の音楽史研究家M氏からこのところ数度に亘る有益なる示唆の波状攻撃を受け、どうも腹が捩れるほどの笑いが止まらない。
近来提示された音源で特に笑いのピークに達したのは、


ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団演奏

「軍艦行進曲」


である。
そう、パチンコ屋のテーマソングのあれである。
1935年録音。
もう力みかえって色彩感豊かな、壮麗に無駄な表現力を駆使した名演である。たまりません。


と、音も聞かせず終わるのも何なので、無駄な名作を一点掲示しておこう。


河鍋暁斎

「インディアン襲撃図」