始源の唄

音楽のある暮らしの中では、しばしばメルクマールとなるようなアーティストなりアルバムなりに出会い、しばらくはそいつを中心に生活が回ってしまうようなことがあるけれども、またそのようにこのところ、一枚のアルバムを繰り返し、聴いている。


うたばうたゆん

うたばうたゆん

さて。このCDをどう紹介すべきか。

まず、朝崎郁恵は、本年もって、67歳である。
このCDには一曲、サイドヴォーカルにUAが参加している。
ほとんどの曲が、ピアノの伴奏のみである。
歌詞は、ほぼ100パーセント、意味が分からない。

さあ、何かイメージできるだろうか。

この希有のアーティストの正体は、奄美島唄の歌い手である。元ちとせの大ブレイク以来、その唱法のルーツである奄美諸島の民謡、いわゆる奄美島唄についても一部で関心が高まっているが、朝崎郁恵はその第一人者である。

奄美諸島島唄は、沖縄の島唄に比べ、より唄そのものの原初的形態を遺している。朝崎郁恵の唄声を聴いていると、体内の根幹にあるものが引き出され、具体的なヴァイブレーションとして眼前に現れるような気がしてくる。普通民謡という言葉で表現されるような平板で退屈さに満ちた商業的な唄では全くない。

このアルバムでは、高橋全という高度で繊細なテクニックを持ったピアニストとのコラボレーションという形をとっているが、見事に成功していると言っていいだろう。通常伴奏に使われる三味線などは、せいぜい近世に導入されたものであって、唄を規制するものではないのだから、唄の本質を引き出すものであれば何を使ったっていいのである。そしてこのアルバムでは、民謡と対極にあるかのようなピアノという楽器が、唄の力を驚くほど高めているのを目の当たりにできる。

奄美島唄の特徴は、元ちとせの歌にも聞くことのできる独特のファルセット・ヴォイスだが、この唱法も島の各地方によって違いがあるらしい。重要なのはこのファルセットが、奄美地方における祭祀において、神降ろしの際に巫女(ノロと呼ばれる)が唄う神唄(オモリと呼ばれる)の主な要素となる事である。人間の発する域を超えるような裏声が唄の要所に配されることが、神を感応させると考えられたのだろう。唄うことにより巫女自身もトランス状態に誘われたであろうことは、想像に難くない。朝崎郁恵の唄声は、トランスの熱狂からはほど遠く、ゆるやかな海の波の彼方から、たゆとうように流れてくるといった印象を抱かせるが、それでも時折神降ろしの神秘を感じさせる刹那がある。

リーフレットに記されていた朝崎郁恵の回想を紹介しよう。
「小さい頃は祝いやら、遊び(唄遊び)やら、とにかく日常に島唄が溢れていましたけど、昔はそれこそ水争い、山争い、土地争い(村落間の境界線、使用権などのもめ事)が起こった時には、掛け唄で競い合って決着をつけたものです。歌詞が出なくなったら、それで負けなんです」

日本において、武器らしい武器が出現するのは弥生時代からである。武器によって損傷を受けた人骨が出土するのも、弥生時代からである。弥生時代の集落の周囲を囲む堀を見ても分かるように、戦争という紛争解決の手段は、この時代に発明されたものである。
人間の集団がある限り、紛争の発生は避けられない。戦争の発生以前もトラブルは発生し、集団同士は争っただろう。しかしその争いは、生産力の低い時代にあっては、最低限のダメージで終了させねばならなかったに違いない。奄美の暮らしには、遺伝子に畳み込まれた遠い縄文時代の記憶が息づいているように思える。そしてその土地で古くから歌い継がれてきた唄にも、我々の古き縄文の遺伝子をデコードする鍵が埋め込まれているに違いない。

それぞれの節の終わりに音程が微妙にずるずると落ちていく加減が、私にはチベットのラダック地方で聴いた声明を思い出させた。アジアがまだ小さな人間集団だった頃、原初の唄というものが発生し、各地方へ散っていったのか──とにかく様々な事を考えさせる、音楽というものの始源を感じることのできるアルバムである。ピアノも美しい聴きやすいCDなので、特に予断を持たず聴いてみては如何でしょうか。