剣風

T区居合道連盟創立30周年記念大会へ赴く。
T区とは縁もゆかりもない私だが、ひょんなことから下町にある道場に顔を出すことになってしまったのである。

下町の道場には様々な人が現れるが、おおむね江戸っ子の臭いを濃厚に漂わすキャラクターが主流だ。長屋の浪人が開いている町道場に現れる熊さん八っつあんという風情である。御高齢の方々が多いのも、その印象を強めている。私など、大学出ているだけであだ名は「先生」である。今どき。「おう先生っ、今日は早えな」と、背中を叩かれるのである。オレは坊ちゃんか。

我々の師匠たる長屋の浪人は範士七段、常に優しげな笑みを絶やさない老紳士である。弟子たちに声を荒げたのを見たことは一度もない。まあ、ゆっくりやりましょう、が口癖である。最近は血圧が高く、医者に抜くのを(居合は「抜く」という語を稽古と同義に使う)止められてます、と笑うが、なかなかどうして、ひとたび刀を手にすれば、抜刀から納刀まで油が糸を引くようで、もし師匠に斬られたら気持ちよかろうと思うほどである。私などに斬られたら、傷口はがたがたで、さぞや苦しむであろう。帯刀時に私の背後に立たないでもらいたい。

──そんなこんなで数年たつが、師匠がその準備で根を詰めすぎ、さらにドクターストップをかけられたという記念大会には、稽古を休みがちの不肖の弟子も押っ取り刀で馳せ参じた、というわけだ。

会場には都内各所から招待客だのなんだのがうろつき、なんだか道場破りっぽい雰囲気。段別の演武が始まって、髭を蓄えた剣士然とした偉丈夫が中学生と並んで初段で現れたり、なかなか面白い。肩まで上げた刀を異様な角度でぶんぶん振り回す荒技の剣士が現れ、おお、と声にならぬどよめきが広がる。柱を背に一人座っていた老人が静かに、無外流だな、とつぶやくのを聞いて、いつの時代にいるのかという感懐を抱く。
私もむりやり三段の部に参加させられ、冷汗ものであった。
冷汗をかいている私の横で本身(真剣)を使っていたK氏が納刀で左手を負傷、鮮血を垂らしながら悠然と退場してくる。皆が錆びるぞ錆びるぞと、刀の方を心配するのには失礼ながら、笑った。

一通りの行事が終わり、最後によぼよぼの爺さんが現れた。
午前中はずっと壇上に座りうつらうつらして、午後は会場をおぼつかない足取りでうろうろしていた爺さんである。会場のアナウンスで、東京都連盟の会長様、範士九段の演武と知れた。いやはや困ったもんだと思う間もなく、会場の中心にぺたりと座った爺さんは、仮想敵に向かってすっと鯉口を切り、そのまま横殴りに刀を抜き付けた。

瞬間、会場が静まりかえったのが私にもはっきりわかった。
たとえて言えば我々は皆、彼に向き合って座ったであろう男の首が吹き飛んだのを、はっきりと見たのである。

後方からの敵に備える体勢となった彼は、くるりと身を翻して、私の正面に立つ形となった。その目は──まことに失礼だが──狂気に支配されているように思えた。上段に構えた彼がドンと一歩踏み込むと、隣のO氏がぐっとのけぞるのがわかった。

演武が終わると、大袈裟ではなく、場内のあちこちから吐息が漏れた。私の横に四つんばいでにじり寄ってきたT氏は、「おい、あの先生はよ、ありゃ人を斬ったことがあるな」とささやいた。どうですかね、と私は曖昧に答えた。肩を丸めてよろよろと控え室に去ってゆく彼の後ろ姿には、何の邪気もない。私は目で追いながら、人を斬ったことがなくたって、九段ともなればあれぐらいの迫力は出るでしょうと言うと、T氏は、いやっ、俺ぁ兵隊で中国に行ったからね、とささやいた後、私の顔を見て、沈黙した。