幻視

ロートレアモン──ロマン主義から現代性へ」と題する国際シンポジウムが開催されるというので、駒場まで赴く。

ロートレアモンという詩人は私のシュルレアリスト時代(笑)のアイドルのひとりで、例のあまりにも有名なフレーズは、高校生の感性にはやはり端的に衝撃的でした。
昨年知人のI氏に最新の研究状況をレクチャーしてもらったが、実に驚いたのである。当たり前だが、文学研究というのも科学的に年々歳々進歩するもので、私の高校生時代にはこの作者(本名イジドール・デュカス)はほぼ謎の人物と言ってよかったが、現在フランスではちょっとしたロートレアモン・ブームのようで、どのような人物であったか、ほとんど探り尽くされているようなのだ。ごくつまらない親族間のごたごたまで明らかにされ、話を聞いているとなんだか興ざめの感もあったが、まあ感心するとともに、ちょっと読み返したりしたのだった。

で、柄にもなくその気になって出かけたのである。のだが。さてここから大笑いの話、なんとシンポジウムはフランス語オンリーなのであった。通訳もつかない。冒頭で退散。悲しくとぼとぼ渋谷の街へ向かうのであった……。もう頭がロートレアモンモードになっているので、悲しくも、けばけばしい渋谷の街は詩的に見えるのである。いやはや。
松濤から坂を上り円山町に登る。

円山町の坂に、詩的幻想とは関わりなく、いつもながら私は、中世渋谷氏の山城を幻視する。紛れもなくこのラブホテル街の町は、代々木・青山の平原を支配する彼らの本拠地だった。怪しげな露地のひとつひとつが、かつての掘割のくぼみを辿っているように見えるのは気のせいか。気のせいとばかりは言い切れないんである。

中世の城と悪所は、ワンセットになっていると言っていい。城を維持するのに必要な下層民たちの集落が、必ずその近くに形成されたのである。ひとたびその地域が設定されると、その記憶は強固なものとなって引き継がれ、城とその住人が消え去った後でも、その地域だけが取り残されたように時代を越えて存在し続ける。現在関東地方にも、そのような場所は多くある。が、当然、負の記憶として公的にも積極的な隠滅が図られている。表には出てこない、闇の歴史である。

円山町に、そのような集落があったかどうかはわからない。しかし渋谷の都市化と共に、悪所を形成する様々なモノが、地中から吹き出すように、あるいは狙いすましたように、この町に現れたのは確かだ。人々の欲望がパンドラの筺の鍵を開けたかのようである。まことに出来過ぎのようだが。悪所には歴史がある。この町に集まる人々は、知らぬうちに歴史に支配されている。


うろついているうちに、円山町の片隅にある千代田稲荷に辿り着いた。地勢と方角からみて、これは渋谷城の鬼門封じの神だろう。悪所と共に、それを封ずる力も、伝承され続けている。最先端の町にも、どこか深いところで、明と暗の闘いが続いている。
ロートレアモンの幻視の目が、どうもおかしなことになってしまった。