昨日の記憶が無いが、捕虜になったと書いてあるから、捕虜だったのだろう。

ようやく意識が戻ってきたら、京都で脱出を試みたことを思い出した。まったく久々の出張だというのに、あまりの缶詰ぶりにキレたのである。夕刻、京都駅で新幹線乗換口に入ろうとしたとき、その脇にたまたま発車間際のローカル線車両が停まっていたので、「ちょっと乗ってくる」と言い捨ててダッシュしたのだった。「勘弁してくださいよー、あと40分しか無いスよーある意味変な話」という営業アベの声が追って来たが、私のこういう発作を抑えられる者はいない。しかし足元はふらついている。

乗ったとたんに電車は発車したが、一体何線なのか。「各駅停車」の文字だけ目に入ったが、確認しなかったのである。最初の駅が東福寺、急いで路線図を見ると奈良線である。二つ目、稲荷駅。さすがにこれ以上は戻れそうもないので、闇雲に降りる。稲荷って何だ。と、降りたら伏見稲荷大社の門前だった。

もう日はとっぷり落ちて、薄暗い参道には人影も見えない。しかしここしか行く場所もないので、参拝する。早足で境内を抜けると、闇の中にぼんやりと、何百本もの鳥居が連なる所に出た。写真で見たことがある。所々にぽつんと裸電球がぶら下がっている。さすがに薄気味が悪い。

鳥居のトンネルの中に入ると、暗い坑道のようだ。数十メートルおきの裸電球の下のわずかな明かりの間は、既に漆黒の闇である。明かりに浮かぶ鳥居の赤と、闇の暗さが妙に陰惨な印象を醸し出す。走った。かなりマズイ雰囲気。右手の方は闇を透かして見ると、緩やかな崖のようになっている。崖下から女の甲高い笑い声が遠く響いてきた。ますます良くない。しばらく行くと左手の藪の中を、私と平行して走るものがある。ような気がする。猫か。「臨兵闘者皆人烈在前」と九字を切り、石を拾って投げつけ、走る。

しばらく行くと鳥居の切れ目が左に現れた。これ以上行くのを諦め、そこから抜け出て戻ることにした。遠くに神社の森の中にある小さな橋を照らす外灯が見える。鳥居の列に入るとき、左側に見えていたはずだから、一周して戻れるようだ。

橋にたどり着き、一息ついて神社の方角を見ると、闇の中に薄気味悪いものが浮かんでいる。行燈のようなものが揺らめいているのだ。勘弁してよ、と思いながらも、ゆっくり近づいてみた。

行燈は、易者のものだった。人気のない神社境内の森、闇の中で、身じろぎもせず端座している。物の怪の類か。どう見てもこれから客が現れるとは思えないのだが。
易者は、女性だった。椅子の方に手をやって勧めるので、座らざるをえなかった。時間がないんですけど、と言うと、わかっておりますと答えた。お仕事に通われる途中に稲荷の社がございますでしょう、と言うので、江戸じゃあ昔っから伊勢屋稲荷に犬の糞ってな、どこんでもんなもなぁあらあな、と啖呵を切ろうと思ったが、いつも通る公園で稲荷社を横切って行くことを思い出し、うーむ、何も答えられなかった。まあいい。あんたは物の怪の類ではなさそうだ。あと2、3の会話はあったが、書くべき事でもない。神社に向かって走る。ふり返ると行燈にぼんやり照らされ、女はまだ動く気配はない。

そのまま境内を走り抜け、駅に飛び込む。グッドタイミングで電車が来る。乗り込むと、眩暈がした。数分で京都駅着。バブリーな巨大駅舎を見ながら、この街は、いったい何なのだと叫びたくなる。

営業アベは、じりじりしながらホームで待っていた。どこ行ってたんスかーと聞かれ、うーん、前からちょっと呼ばれてた所があってね、顔だけ出してきた、と答えておいた。なんスかそれー、先に言っといて下さいよとボヤく営業アベの顔が、熱のせいか、なんだか狐みたいに見えてきた。