妄想閣残念堂

某所で明治の文献をひっくり返していると、昔の版元名の無体ぶりに笑いが止まらなくなって仕事にならん。「岡本偉業館」「天下堂」「報告堂」「吐鳳堂」「努力世界社」「裁縫成功舎」等々、誇大妄想狂の怒鳴り合いのようだ。

今となっては、これらの愛すべき版元たちは、日本文化の歴史に痕跡すら遺していない。とまあ、なじるように言うのではあるが、そのようなレベルの痕跡を振り落としていくのが、社会というもののごく素直なありようだろう。だが明治・大正という時代について我々が知っている知識、あるいは知識の如き既視感は、凄まじく細部を切り落とした貧相なものに過ぎないのは確かである。事は江戸だの縄文だのといった時代ではないのである。ある種の目と意識さえあればいつでも貴重な資料に化けるべく眠っていた、手の届く時代の資料が、いま続々と湮滅されている。要はバブル期の狂乱とこの戦後最大の不況のジェットコースター的激動が、記憶を込めたモノたちをあっという間に散逸させたという哀しいストーリーである。

手垢どころか泥汚れにまみれてしまったが、正しき「ポスト・モダン」的思考法は、これらのモノたちから新たな物語を遺伝子の紐みたいに引っ張り出すはずだったのであるが。(カルチュラル・スタディーズにはそういった要素の微かな痕跡を感じるが、結局「モノ」より「意識」である。ちょっと違うなあ。)