生きてゐる亂歩

このところ乱歩づいていて、本郷の弥生美術館まで「江戸川乱歩と少年探偵団展」を観覧に赴く。

入館してすぐ、小林少年が仏像に変装して怪人二十面相のアジトに潜入するなどというビッグイヴェントを記憶の底から掘り起こされてしまい、ありえねえと呟く。挿絵がスゴイ。仏像めいた薄物を纏った美少年をいたぶるけむくじゃらの男。もうペデラストの告白である。フロイトじゃないけど、私の少年時代を彩った得体の知れぬ通奏低音としての恐怖の根源は、去勢恐怖ならぬ強姦恐怖だな(断言)。

重要な点。怪人二十面相は、もちろん少年探偵団の敵であるが、誰よりもこのガキ共の存在を認めているのである。「話の分かる大人」なのだ。明智小五郎は上司然とした自分の腕前に酔う傲慢な男に過ぎない。少年たちの真の友は二十面相なのである。

しかし考えてみれば、正確に作品を配列してみると、明智夫人文代はいつの間にか消え、代わりに小林少年と明智の仲むつまじい生活が始まる。美術館で買い求めた『少年探偵団読本』(黄金髑髏の会編著、情報センター出版局刊)には、衝撃的な推理が述べてあった。文代は明智の元を去り、二十面相と暮らす道を選んだというのだ。知らなかった! ショックである。確かにある時期以降の作品に謎の美女が現れるようになるのだ。当てつけのように小林少年を愛する明智。哀れな男だ。

会場の中央辺りに、村山槐多の『二少年図』という作品が展示してある。これを見るためだけでも、この展観は足を運ぶ価値がある。瑞々しい色彩だ。超スピードで生きる存在のまき散らす力がなんとも眩しい。乱歩はこの作品を足掻くような思いで求め続け、手に入れ、身辺に飾っていたという。私が乱歩邸を訪れたときにはもう寄託後で残念な思いがしたものだったが、ここで出逢うとは思わなかった。水彩は色の保存という点でかなりのハンデがあるが、なんとかこの状態で退色をくいとめてもらいたい。

しかし「たのしい二年生」にまで『ふしぎな人』という妖しい作品を連載しているのは、教育上よろしくないんじゃなかろうか。「はやしさんはかわりものだが、けっしてわるい人じゃない。たいへんちえがあるのだよ。そのちえで、いろいろふしぎなことをやってみせるので、まほうつかいのようにみえるだけなのさ」わかるかよそんなこと言われたって。いい人なのか悪い人なのかはっきりしてほしいものだ。「かいじん四十めんそうのもとの名は、かいじん二十めんそうです。あるとき、自分は、二十どころではなく、四十ものちがった顔をもっているというので、四十めんそうと名まえをかえたのですが、世間には、二十めんそうのほうが、よく知られていますので、このお話では、二十めんそうの名でよぶことにしましょう」苦しいぞ乱歩。

少年時代、乱歩作品の舞台となる「世田谷」とか「住宅街」なるものに投影していたイメージを再確認したのも面白かった。田舎者の少年にとって、それらの住宅街は深閑としたお屋敷町で、妖しい怪人が現れ、謎のインド人や外国人の美少年が現れる巷であり、それが「東京」そのものだったんだなあ。いまだにその辺りをカメラ持ってうろうろする癖が直らないのは、いつか彼らに遭うに違いないと思っているからである。今も私は世田谷のお屋敷町のはずれに住み、彼らの捕獲を狙っている。