瓦の青春

この2日、深夜泥酔して電車内を徘徊している。そういう季節である。しかし昨日、足元のおぼつかぬ私の目の前に座ったニット帽にド金髪、マスカラぐいぐいで真っ白な長いマフラーぐるぐる巻き、ジーンズをでかいブーツに突っ込んだ、要するにいまどきの若い女の子が、『古代関東の須恵器と瓦』(酒井清治著、同成社刊)を食い入るように読んでいるのに出くわして、驚愕した。思わずしゃがみ込んで、布目瓦ってヤバいよねーとか話しかけそうになったが、辛うじて最後の理性で踏みとどまったのであった。

放浪時代(笑)に、奈良の新薬師寺を訪れたことがある。観光ルートからもはずれ、寂れた雰囲気が漂っていたが、足を踏み入れた本堂の十二神将像は午後の薄暗闇の中、凄まじい存在感と迫力で見る者を圧倒し、私は五分と見ていられなかった。傾いているような錯覚を起こさせる本堂から出て、がらんとしたその周囲をうろうろして、本堂の背後の狭い空間に回ったとき、地面に顔を出している多数の古瓦が目に入った。

人っ子一人いないし、私はしゃがみこみ、興味本位でそれらを掘り出し始めたのである。ほとんどが高温で焼かれた最近のもの──それでも物によっては江戸期ぐらいにはなるだろうが──だったが、中にひとつ、いかにも古寂びた、乾いた色の破片があった。

まことに宜しくないが、私はその破片をポケットに入れ、寺を後にしたのである。どうしてもその色が、捨て難かったのである。

帰宅して入念に洗い、乾かすと、さらに古雅な趣の色になった。机の上に置いて眺めていると、どうもあの十二神将像の肌の色と同じ色調に見えてきた。これが奈良の色かあ、と、阿呆のように瓦を眺め続けると、古代の瓦職人や、屋根を葺く人々の姿が幻視されてくる。小さな破片が何かの通路になるような気がする。土の中に極めて小さく雲母のようにきらめく破片があり、蛍光灯を反射して微かにきらめくのが、何かのシグナルのように思えるのだった。

先日、東大寺によく顔を出す機会のある日本画家から電話がかかってきたついでに、最近の新薬師寺について尋ねてみたら、まあご多分に漏れず、激しい観光寺院化。バスがガンガン来て、本堂には妙なステンドグラスが嵌められ、堂内にはBGMが流れているらしい。溜息つきながら本堂周囲の状況を聞くと、先年本堂大修理を行い、きれいに玉砂利で埋め尽くされているらしい。瓦は私のような不届き者の目を逃れ、永遠の眠りについているようである。

古代関東の須恵器と瓦

古代関東の須恵器と瓦