深夜のB

真夜中にTVでタングルウッド音楽祭のドキュメントを放映していた。小澤征爾が学生オケ相手にバルトークの「管弦楽のための協奏曲」を振っている。見るともなく見ているうち、音楽に引き込まれる。

バルトークは、不思議な音楽家だ。その音楽は、誰かに似ているようで、誰にも似ていない。不思議な断絶と衝動に満ち、ロマンティックであり、ある時は素っ気なくもある。音符の間に、ヨーロッパ近代人の生な自我そのものが覗けるような瞬間があるようにも思える。私の耳には、その「自我」は、常に何物かと格闘を続けるような、苦渋に満ちた、かつ一面で自意識過剰な皮肉に満ちた、さらにはペシミスティックなものに、聞こえる。

唐突だが、マーラーなどには、やはり響きの中に自己省察のニュアンスは感じ取る事はできない。表現された喜びも悲しみも、躁鬱的な演劇的身振りに満ちたものだ(それが「ロマン主義」というものなのだろうが)。私の感覚ではそれほどマーラーから時代が隔たっているとも思えないのだが、バルトークの音楽には、常に奏でられているその瞬間の、自らの響きそのものに対する懐疑が込められているように思えるのである。じゃあ従来の音楽への異議申し立てであったシェーンベルグなどの所謂「現代音楽」の表現はどうかというと、こちらは、自らの革新性を疑わぬ楽天性が、聞いていて恥ずかしくなる事も多いのである。どちらがより先鋭かどうかは、言うまでもない。もちろん、私の一人合点ではあるが。

私にバルトークを聞くよう強く薦めた友人は、「俺にとっての『3B』は、バッハ、バルトークバーンスタインだ」と宣言し、私にもこの宗旨に同調するよう、うるさく折伏したものだ。純真な私は、案外あっさり入信したのである。この男は某音楽誌でハイドンの同じ曲のCD20枚聞き比べなどというトンデモ企画を書き飛ばしたりして私を驚かせてばかりいたが、数年前、あっさりこの世を去ってしまった。

残された私は、慣性で動く人形のように、3Bを聞き続けている。そろそろ卒業してよいようにも思うが、生活の一部になった感もあり、まあ、とりたてて新しいものに手を出すこともないかとも思う。

彼がバルトークの音楽に何を見ていたのか、一度として尋ねたことはなかったが、今夜TVを見ていて少しわかったことがある。──画面に写る小澤は、オケに向かって「もっと汚く!」と叫び続けていた。弦の合奏が優等生的に過ぎるというのだ。奴も何かと四角四面の音楽に対して否定的だったし、バルトークの音楽に感じられる、ある種の奇妙な不整合感に惹かれ続けたのではなかったか。
しかしそれでは、バッハの調性の整った構造的な音楽はどうなのだ、と問われれば、バロックという言葉の意味を考えよ、と答えるしかない。バロックとはルネサンスの均整と調和に満ちた文化への異議申し立て、破格だったはずである。異形の文化、かぶいた美である。

逝きし者の嗜好を月旦するのも詮無い話だが、彼が火を点じたものは我が身中に在り、と言うしかない。深夜、漆黒の闇に、バッハを流す。

バルトーク : 管弦楽のための協奏曲

バルトーク : 管弦楽のための協奏曲