東上

新幹線に乗る。

いつものように、近江の国、豊郷町を通過する際、目の前でこちらに向かって両手を大きく広げたような豊郷小学校の校舎を確認する。例の校舎保存運動で大揺れに揺れている物件だ。

日本人の心根には、どうも伊勢神宮式年遷宮に見るような、アラタマルということに対する信仰が根強く存在するのではないか。ないか、と私が言うまでもなく、現にある。ついでに言えば保存とか記録とかいう事象に対して、ある種の軽んじる気分、というものがある。国公立のアルヒーフ系の設備や事業に対する予算は狩猟民族系国家の数百分の一ですぞ。連中はその行為こそが歴史を構築すると考えておるからね。我々は田んぼさえあれば、それが遺すべき歴史だという民族である。その歴史さえ、年々歳々アラタマル。

アルヒーフと言ってしまったが、よい訳語が無いと思うけど、文書館?と訳すのか。

豊郷小学校は、ヴォーリスの設計である。東京の人にはお茶の水山の上ホテルが同じくヴォーリスの設計だと言えば頷いてもらえるだろう。山の上ホテルの建物の質実さには、プロの設計家ではない彼の、人間の生活というものに対する篤実な精神が反映されているように思えるが、豊郷小学校にも一見して同様のニュアンスが感じられる。ヴォーリスとその建築については、検索してもらえばいくらでも情報があるだろうからくだくだしくは言わないが、壊したものは帰ってきませんぜ。もうちょっと想像力働かすことできませんか。法隆寺が建ってからしばらくして、古くなったからと建て替えてたらどうなりますか、って物言いは素朴すぎるか。しかし価値観を共有できない人を説得するのは、むずかしいものだ。

夕闇の中に校舎は消えて行き、目前に真っ白に冠雪した伊吹山が視界いっぱいに迫ってくる。関ヶ原を越えると、もう東夷の居ます蛮国だ(平安時代人の発言)。