すべての暴力のために

日曜日にABC青山本店で買ったブックレット『フェニミズムから見たヒロシマ』(上野千鶴子他、家族社刊)がなかなか面白い。副題に「『女・核・平和』シンポジウム記録」とあるように、つまりそのようなシンポジウムの記録である。広島の小さな出版社が出したものなので、一般にはほとんど流通していない。
本としてはいきなり第1頁目に大誤植があるような、何だかなあという造りだが、本書中の上野氏の発言がまあ例によって切れ味鋭く興味深いのであった。

国家の暴力の非犯罪化という原点にまで立ち帰って、様々な現象を考えてみませんか、というのが要はこのシンポジウムでの彼女の提案である。国家権力による「公的暴力」──戦争自体である──と、私領域における暴力──今ではDVと言った方がいいか──という二つの暴力に挟まれた市民社会に属する暴力だけが、この社会においては犯罪とみなされる。近代市民社会国民国家の成り立ちと、そこにおける暴力の配分という問題に我々は対峙せざるを得ないというわけである。私領域についてはひとまず措くとして、公的暴力自体が非犯罪化されるとしたら、国家というものはどうも市民社会に属してはいないということになるわけだ。

われわれは近代市民社会を成立させたと同時に、その外部に無法地帯を持つことになった。一級市民が市民社会の極で公的暴力を行使する体制が完成した時、それは総力戦体制と呼ばれるものになるだろう。上野氏はおそるべきことに、近代戦というのは総力戦体制=総動員体制であり、非戦闘員にも国民国家最大の事業である戦争という行為に協力した責任があり、つまりは、非戦闘員もまた攻撃を受ける理由を持っている、と言うのである。

要するに「戦闘員による公的暴力」は「正当」なものだという、暴力自体を肯定する論理自体を押し進めてゆくと、総力戦下においては、外部の無法地帯におけるすべての暴力が肯定されてしまうというわけである。

そこではヒロシマの特権性も無化されてしまう。とは、上野氏は慎重に言葉を選んでいるので言いはしないが、すべての暴力を否定する立場に立てば、それぞれの事象はただの「被害のピラミッド」を競うレースとなってしまう。暴力に機能的な分類を与えたとたんに(例えば「戦争犯罪」という規定を与えてしまったとたんに)、犯罪でない暴力、良い暴力、ヒロシマ以外の軍事目標への原爆投下ならOK、という回路が成立してしまうのである。果たしてそれでいいのか、というのが上野氏の問いかけだ。

シンポジウム記録のせいだろうが、上記のように読みとれる上野氏の慎重な挑発への反応は、訳のわからぬふにゃふにゃなゴタクが並んでいる。情けない。堂々とヒロシマの特権性(というものが自覚できるのであれば)を主張してみればいいのだ。今となってはひょっとすると、相当な理論武装が必要なのではないのか。そのことに無自覚なままではいられないのである。