avec la collaboration de Jacques Tati

昨夕、先日も言及したジャック・タチの『プレイタイム』先行上映に赴く。午後9時開場の渋谷パンテオンにはかなり長い行列ができており、若い人が多く、この一連の上映を通じて新しい共通認識ができるんだなあ、という思いであった。

一夜限りの限定上映、しかも70ミリでの再現、そこには如何なる映画的意味が発見できるのか? もちろんこちらは映画史研究家でもなければ、タチ・マニアでもない。しかしタチがあれほど70ミリに拘泥した意味合いは汲み取る努力をするべきだろう。などと考えぼんやり並んでいると、関係者招待入口に入っていく金井美恵子センセイに思い切りぶつかる。

こじゃれたプログラムをもらい、席について読み始めると、旧知のS氏が文章を寄せている。肩書きを見ると「伝記翻訳者」だと。そりゃタチの伝記は訳してもらったが、これじゃなんだか古代ローマの廷臣みたいだ。

ステージ上ではアコースティックなバンドが小さな音量でタチ映画のサウンド・トラックを演奏していたが、そのうちに場内静まり、かの大写角にて上映開始。

一言でいえば、この映画は「音の映画」と表現すべきではないか。あるいは、リズムの映画。この映画においては、タチのギャグはほとんど全て音がきっかけとなっている。クライマックスとなるレストランの乱痴気騒ぎは、全編にバンドマンによる騒々しい音楽が流れる。
では70ミリはというと、音を活かすスペクタクルとしての画面をタチは必要としたのではないか。最先端のモダニズムに彩られた町は全てセットで構築されており、その強調された人工性は左右に広い画面でさらに無機的に表現される。そこに無理矢理はめ込まれた如くに不器用に動き回るユロ氏が、異様に浮き上がって見えるのである。その異様さ、存在するだけで現代社会に批評性を発揮するその身振りこそが、タチの表現する方法そのものだろう。町の音は、ノイズではなく全てが意味を持った音の現れとして処理されているが、その中をユロ氏が歩むとき、彼にはこのように聞こえているだろうという聴覚的な同一感を得ることができる(もちろん特別ギミックな音響効果で奇妙な音が流れるなどというわけではない)。これら全てが相乗効果をもたらし、不可思議なタチ・ワールドを形成する。この街は果たしてパリなのか? 喜劇映画にもかかわらず、観ているうちにカフカの小説を読んでいるような気分になってくる。ユロ氏はこの町で何をしているのか? 巨大なビルの中で永遠に訪問相手に出会えぬユロ。町中至る所でユロの前に親しげに現れ、しばらくすると突如として去っていく「戦友」と称する人々。終盤近く、道路のロータリーを回転木馬のように回る車の列。ひとつひとつが、この全編がユロの幻想の産物であることを暗示しているように思える。画面のあちこちに現れるユロに似た、パロディの如き人物が、さらにその印象を強める。しかしだから何だというのだ、と言われれば、そのような寂寥感、美しい夢の印象を感じました、というしかない。この映画が(タチヴィルとまで言われた)空前絶後の町のセットで撮られた、ジャック・タチの理想としての映画=夢そのものなのであり、その中で動き回るユロ氏がそれを体現しているのは当然のことだろう。そこには最上の、映画以外には表現できぬ何物かがあり、今夕パンテオンに集った我々は──おそらく今世紀最初にして最後──それを共有することができたのだ。

上映が終わると、既に12時に近い。終電がヤバイのでダッシュである。6月下旬から、あの六本木ヒルズのヴァージン・シネマズで開催されるジャック・タチ映画祭でお会いしましょう。

タチ―「ぼくの伯父さん」ジャック・タチの真実

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