晴雨は責め絵だけではありません

伊藤晴雨の『文京区繪物語』(昭和27年・文京タイムス社刊)を古書店で買って読んでいたら、講談社を称して「“講談社末期の水も野間清治”と或る人が云ったのは、偉人野間清治氏に対して怪しからん次第である」という一文があって、腹抱えて笑ってしまった。或る人どころではない、こんな気の利いたことを言うのは晴雨本人に相違ないからである。野間清治は口八丁手八丁で現在の講談社の基礎を築いたが、晴雨は彼に含むところがあったようである。まあ野間という男はそう言われても仕方のないアクの強さがあり、晴雨は続いて「五十嵐松園の原稿百回分をタッタ十五円に値切り倒して買って、本人が死亡した後、新聞一頁打っ通しの大広告を出して、大傑作という広告をした手際の鮮さは全く以て恐れ入ったものである」と皮肉を述べている。現在の講談社もそうだなどと言うつもりは全く無いが、会社という生き物には、創業者のDNAが、まあその切れっぱしぐらいは、あちこちに浮遊しているものである。

ところで、本書冒頭には何故か晴雨の筆になる自身の略歴が付されている。そのあまりの江戸っ子ぶりの良さに、大変長文になってしまうが、思わず以下引用させていただく。

 予は明治十五年三月を以て浅草金竜山下瓦町に生る。父錠次郎、業金彫。家貧く小学校中途退学十三歳にして丁稚小僧に遣らる。廿四歳、主家を飛出し画家たらんとして放浪生活を為す。師野沢堤雨光琳派、廿六歳、東京日本橋蠣殻町の毎夕新聞に入り、月給九円を貰う。廿八歳、読売新聞社に入り挿絵と三面記事を担当す。学歴なきを以て屡同人の侮を受く。兼ねて三十間堀所在やまと新聞社の挿絵主任となる。新聞社の内訌に愛想を尽かして新聞社を退く。後松竹合名会社に聘せられ新派の絵看板、番附等を描く。劇界内部の真相を知り又是を退く。大正地震火災の為生活豊ならず。新国劇沢田正二郎に拾わる。沢田死後新国劇を退き曾我迺家五郎一座の顧問となる。後一切の劇界と関係を断ち市村羽左衛門に絵画を教え傍ら江戸趣味を中心としたる著述に没頭して今日に至る。其間波瀾曲折、名流大家と交りて先輩諸氏に負う所少からず。酒を好んで多弁饒舌、時々失敗を招く。性格円満ならずと雖知人頗る多く、交遊久しくして絶交を当方より宣告したるもの前後僅に二名のみ。戦火に家を焼かれ僅に膝を入るゝの画室を作りて生活と闘いつゝあり。罰ありと雖賞無し。交遊多きを以て香奠を贈る事屡あれども未だ一回も之を貰いたる事無し。以上を以て略歴とす。

江戸と東京風俗野史

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