尾道物語

不祝儀ありて尾道まで赴く。

鈍行列車がゆるゆると滑り込んだ午後の田舎駅は、まったく、弛緩しきって物音ひとつしない。

改札を抜けると、何者かがキュー出ししたかのように、静かに町の音が流れ始める。遠くから向島行きフェリーの汽笛が聞こえる。駅前のぬるそうな灰色の海は相変わらずだが、広場の様相は当然、毎夏のように祖父の家へ訪れていた子供の頃と比べると一変してしまった。ありがちな駅ビルが既視感を誘うロータリーと動線を無視したような位置関係で建っており、強い田舎感を醸し出している。全くいただけない。

数年前の祖母の葬儀の折は、まことに不謹慎な話だが、哀しくも私は吹き出しそうになるのをこらえるのに難渋した。猫背でぼんやり座敷に座る祖父、窓から声をかける近所のオバサン、無用にイライラしている叔母や叔父、何から何まで『東京物語』そのまんまで、世界全体にツッコミを叫びたかったが、そう、お察しの通り、唯一の相違点は、そこに原節子がいなかったことである。小津の、というか野田高梧の人間把握力とそれを受けた小津の演出力はもちろん大したものだと思うが、原節子の存在はあまりに巨大なフィクションで、丹念に描写された日常世界に無理矢理ねじ込まれたSFのような違和感がある。と、感じるのはもちろん私だけだろう。だけど別に祖母の葬儀で飯田蝶子大坂志郎杉村春子を目の当たりにする前から、そう感じていたのですよ(ちなみに私の母は杉村春子であることが判明)。

出棺を見送り、帰りは新幹線で直行することにしたので、ぽっかり時間が空いた。浄土寺まで上がってみる。原節子笠智衆が語り合うシーンの撮影場所である。真言寺院独特の猥雑さの漂う境内は平安以来の古刹とも思えぬヤル気に満ちており、カナワンなあと思いながらふと、私が原節子に感じている違和感は、その強烈なエロスの露呈に淵源があるのだなあ、と気付く。勝手にエロースを感じているんだが。でも笠智衆の前でさめざめと泣きながら告白するシーンなんか、あれエロでしょう。この点は同意いただけると思うのですがいただけませんかああそうですか。

新幹線車中にて、異様な老けメイクでむりやり老人役をこなした『東京物語』当時の笠智衆の年齢にひたひたと近づいているのに突如気付き、戦慄する。私はよくラストシーンの笠智衆のモノマネをやっていたが、もう封印することに決定した。シャレにならんではないか。私だってまだ学生に間違われる時があるんだ。マジで。(書いてて虚しい)