阪神タイガースマジック点灯によせて

あの年、広島カープは2度目のリーグ優勝を決めようとしていて、夏休み明けの教室はどうにも落ち着かなかった。初優勝からしばらくの間が空き、しかもマジックナンバーの計算上、初めての地元における優勝決定という感激が味わえそうだったのである。

9月末、マジックも一桁になり、朝の学校では無言でスポーツ紙を熟読する姿が目に付いた。友人Fなどは午前中登校、午後は「試合に集中するため」と称し、早退を繰り返していた。Y教師の作成する英語の試験問題にはカープ関連の英作文が頻出するようになった。

町中が浮わつき始めたのが、歩いているだけでひしひしと感じられた。市民全員が評論家と化し、八百屋の老婆が衣笠のバッティングフォームを論じ、乗客の少ないバスでは車内が古葉の采配についてのティーチ・インの場と化し、留置場に拘禁されたコソ泥が「せめて試合結果だけでも教えてくれ」と警官に懇願する有様だった。

そして運命の日──遙かな記憶はもう混乱しており、よく思い出せないが、確か太洋ホエールズ戦ではなかったか。当然プラチナチケットは大半の市民の手には入らず、ほぼ全世帯のテレヴィジョンの電源が入れられた、と思う。窓から見る道路には人影も車の姿もない。そして、6回だったろうか、決定的な追加点が入れられたのだった。瞬間たまらず窓を開け放ち、私は言葉にならぬ叫びを上げた。すると呼応するかのようにあちこちの窓が開き、鬨の声が上がった。試合中継の音が町中の窓から夜空に反響し、周囲一帯が球場と化したかのようだ。

私は、完全に頭に血が上り、「こんなことしとられん、行って来るで!」と言い捨て、自転車に飛び乗った。

夜9時を過ぎていただろうか。原爆ドームの近くで自転車を放り投げ、広島市民球場へ向かうと、周囲は既に人の波であった。皆、何の目あてもなく、ただワーワー叫びながら球場を目指している。人波に揉まれながら、ふと、これァどっかで見た風景だなあ、と思う間もなく、テレビで見た懐かしの60年安保の記録映画であることに気付く。革命なんじゃなあ、巨人軍の球界支配を打倒するんじゃなあと感動し、わしらは革命戦士なんじゃと思うと笑いがこみ上げ、大声で笑いながら突進する。

球場の入口では警備員が拡声器で何か叫んでいる。危険ですとか券はありませんとか必死で叫んでいるようだ。しばらくすると一人の革命戦士がモギリの兄ちゃんの逃げ出した後の台を積み重ね、その上から「ここ誰もおらんぞ!こっちから入れるで!」と叫んだ。人波がどっと突入する。警備員たちが絶叫した後、一斉に後退する。私も続いたが、しばらくしたら内側からロックアウトされたようで、「こっちはもうだめじゃあ」というメッセージが口づてに伝達される。誰ともなく、「外野へ行こう」と言い始め、私も球場を半周するように走り、外野に向かった。

新たに加わった人波が寄せては返し、様々な集団が様々な方向を向いて走っている。外野スコアボード外に聳えている石垣の下に辿り着くと、既に何人かの戦士が取り付き、にじるように這い登っていた。3メートルほど登った男が転げ落ちる。途中で動けなくなったのか、下に向かって何か叫んでいる男がいる。上の外野席からも何か叫びながら、何本もの手が伸びている。私はなす術もなくぽかんと口を開け、それを眺めていた。また違った感懐が湧いてきたのである。これは安芸門徒の、石山本願寺における合戦の姿ではないか。後に大阪城となる本願寺で度重なる織田信長軍の猛攻を撃退したのは、侍でも何でもない、本願寺門徒衆であるこいつらの祖先だ。石垣に取り付いた革命戦士たちの背中に、「南無阿弥陀仏」の旗指物が翻っている。「進者往生極楽 退者無間地獄」の旗を振り回している者もいる。完全に理性を失った狂熱が周囲を支配し、ぼんやり見上げていた私は、誰かに突き飛ばされた。

その瞬間は、突然やって来た。さざ波のような歓喜の声が人波の向こうから近づき、一瞬にして点火し、爆発した。ついにやったのだ。皇帝は死んだ。我々を抑圧し、搾取する者はもういない。車の上に立った男が、泣きながら赤い旗を振り回している。団結の旗だ。革命の旗だ。見知らぬ男たちが次々に抱きついてくる。握手を交わす。杖を突いた老人が、周囲の人々に深く礼を繰り返している。詰め襟の集団が肩を組んで球団歌を高らかに歌っている。私は人波に押され、繁華街へ向かった。

商店の前には、樽酒が並んでいた。町を行く人々は思い思いに酌み交わし、各所で万歳三唱が炸裂していた。めぼしい女性は全て胴上げの犠牲となっていた。いい気になって各所で樽酒を頂戴していた私は、気がつくと知らない店で、知らない男に酒を注がれていた。何、兄ちゃんは高校生か、まあええ飲めや、勢い良く一杯あおって退散する。飲食店はことごとくドアを開け放ち、飲み放題状態である。

人波はいつ果てることなく続き、深夜になっても狂乱は醒めることがなかった。私はようやく平和公園横の川べりにひとり辿り着き、川面に吐瀉物をまき散らした。苦痛と歓喜のなかで、革命というものは、しかしながら容易に持続されるものでは無かろう、と、妙に冷静に考えていた。この熱しやすく醒めやすい故郷の人々が、いずれはカープ革命戦士たちに悪罵を投げつけ、無関係を装うのだろう。反革命の恐怖が、ひしひしと感じられた。その時が来れば私も、人波に混じって、当然のように彼らに唾を吐きかけるのだろう。だがしかし、私一人が抵抗して何になる。私に何ができるというのだ。私は先走って、自分に言い訳を繰り返した。

その時私は、正確に現在の自分の姿を予見していたことになる。

昼休み、新聞を読みながら、うら寂しいチームと化したカープに、私は悪罵を投げつける。無関係だと思いたい。赤い帽子は、赤いユニフォームは、そしてあの赤い旗の色は、革命の色ではなかったのか。我々の信じたあの大義は、何だったのだろうか。全ての広島市民が不当な支配から解放されたあの戦いは、間違った戦いだったのか。昭和20年、30年、40年代、「セリーグお荷物チーム」と嘲笑されながらも優勝を信じて戦い続け、血涙を流し散っていった戦士たちの魂魄は、何処を彷徨っているだろうか。

「革命の大義」などは冗談のような言葉となり、皇帝を打倒した戦士たちの記憶も、既に歴史の中の一齣に過ぎない。そして、資本主義の勝利は当然の前提となった。フリーエージェントによる戦士獲得を行わない永続革命の論理と実践は、グローバリズムの渦のなかで、哀しきピエロのような存在と化す。

カープがメチャメチャ強かった時代もあるんスねえ、と、私の新聞を覗き込んだ若い同僚が言う。そうだよ。革命が成就して、理想社会の建設が始まり、万人が幸福に暮らす時代が来ると、オレたちは信じていたんだ。どこが間違ってたというんだ。魔王のような信長の支配を打ち破ってな。この世にお浄土が出現するんだ。阿弥陀さまにおすがりしてな、戦ったんだ。死んだってお浄土に行けるんだから、恐いものなんて無いんだ。糞ったれめ。戦え!進め!ツアーを殺せ!全ての広島市民よ、団結せよ!南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏!ああダメだ頭が痛い。暗い川面に向かって、私はげえげえ嘔吐を繰り返す。