拮抗を超えて新しい未来へ

カープ=ヒロシマ聖戦機構からは「波状的自爆攻撃で裏切り者盡頭子に死を」というメッセージが、革命的鯉主義者同盟巣鴨派からは、「カープの弱点を隠蔽し賞揚し続ける日和見スターリニスト盡頭子を徹底殲滅する」という宣告が、大日本青年鯉軍宣揚会からは「自虐的言辞を繰返す軟弱口舌の徒は広島市民球場前で切腹して謝罪せよ」という血書が、その他諸々が、続々と届いている。私のペシミスティックな表現のどこかの部分が、それぞれ左右両極、及び民族主義者たちの怒りを買ったらしい。しかし私は、極左冒険主義にも、極右暴力主義にも与さない。もちろん、中庸などと称すれば、その時点で失笑を買うのはよくわかっているつもりだ。

先日、Theatre of Philosophy の吉田氏から、研究会用テキスト用にリチャード・ローティの『リベラル・ユートピアという希望』(岩波書店刊)の中の一章、「トロツキーと野生の蘭」のコピーを渡された。昨日再読、深く嘆息する。

 "政治上の左右両派からおなじように激しく攻撃されるのが、知識人として最も望ましい位置である、という考えに何ほどかの意味があるとすれば、わたしの場合、現状は申し分ないということになる。わたしが保守派の論客のやり玉に挙がる際にはしばしば、相対主義的で非合理主義者であり、脱構築を唱える冷笑的でにやけたインテリの一人で、その著作は若者たちの道徳心を衰弱させているとされる。(中略)しかし、左派の立場から発言しているシェルドン・ウォリンは、わたしとアラン・ブルームの中に多くの類似点を見ている。彼の言によれば、わたしたちは二人とも、自分と同様の余暇と教養のあるエリート層のことしか気にかけていない知的スノッブである。二人とも、アメリカ社会からのけ者にされてきた黒人やその他のグループの人びとに対して言うべき言葉をもっていない。ウォリンのような見解は、イギリスを代表するマルクス主義思想家であるテリー・イーグルトンの発言からも聞き取れる。イーグルトンの言うには、「(ローティーの言う)理想社会において、知識人は『アイロニスト』であり、自分自身の信念に対し適度に鷹揚で、肩の力の抜けた態度を取るが、他方、大衆の方は、そのようにして自分自身に対してアイロニカルな態度を取れば破滅的な結果を招きかねないので、あいかわらず国旗に敬礼し、人生を真面目に受け止めるであろう」"

黒い虎でも青い竜でもよい、巨人を倒すものが良き獣である、とかつて中国のエライ人が言った。ホンマ勝ちゃあええんじゃ勝ちゃあ。ドアホ。