震災の記憶

数日来、地震の噂しきり。「予知」という疑似科学と科学の境界線上に発生する、噂の遠近法についてしばし考える。

先日文化資源学会によって開催された関東大震災八十周年シンポジウムを参観したばかりだったので、思考の方向はより具体的な数値問題に傾いていくのである。

シンポジウムでは朝から夕方までほぼ初公開の震災記録映画を見続けて、頭の中は焼け野原になってしまった。
それはともかく、私たちは震災の問題を考える時に、つい現在の大東京を当時の東京市に重ね合わせて考えてしまうが、統計によると実際には麹町区(現在の四谷付近)の犠牲者数などは、たった2人である。震災時の朝鮮人虐殺の犠牲者は推定6千人であるから、地震よりも噂の攻撃に晒された地域が多かったことが窺える。近年の統計的な再検討によると、死者の数は9万人ほどであり、そのうち本所の被服廠跡の広場で3万人ほどが一気に焼死しているから、ざっと6万人ほどが他所での死者である。さらに横浜などの犠牲者数を除算すると、当時の東京市の総人口が220万人ほどであることを考えれば、あの震災は正確には「江東地区壊滅地震」と呼称するべきなのである。

震災後ほどなくして東京は「モダン都市東京」として自ら再生を高らかに謳いあげることになるが、江東地区を中心にした古い都市構造を震災を奇貨として一掃してしまったこの都市は、あたかもそれが近代化のプロセスに組み込まれてあった必然の如くにふるまうことになる。そして、犠牲者の比率からみると恐ろしいほどの朝鮮人虐殺犠牲者の記憶は、このモダン都市の地下深く封印されてしまうのである。まさに「モダン」ならざる事象であるがゆえに。

そう、逆にあの震災は、噂がシステムとしてきわめて合理的に作動した、反語としての「近代的」な作用を伴っていたと理解してもよいだろう。虐殺の主体は都市住民による警防団や一部の軍隊である。彼らは突然凶暴化して隣人を虐殺したのではない。そこにはきわめて近代的な社会システムのプロセスが存在するのである。

さてこの度の「地震」と「噂」の拡がりはどないなもんか。