E・サイード死去にあたって

以下は一昨日ニューヨーク・タイムズに掲載されたリチャード・バーンスタインによる追悼記事の世界最速弊研究所超訳である。かなりの長文になるが、9・11以降アメリカ内で彼の置かれた位置と、リベラルな立場からの彼の評価との現在の微妙な関係が読み取れるだろう。本訳をもって弔意にかえるものである。

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アメリカで最も著名なパレスチナ独立の主張者であった、コロンビア大学の偉大な学者エドワード・サイードが、今日ニューヨークで死去した。67歳。死因は白血病であった(サイードは数年間この宿痾と戦い続けていた)。サイードは英国占領下のエルサレムで生まれ、十代でアメリカへ移住し、コロンビア大学比較文学の教授として、広く議論される著作をコンスタントに量産し続けた学者であった。

彼は家庭においては、アメリカの多文化性を証する模範的な存在であった。家庭内の会話はアラビア語と英語が混じり合ったものだったが、しかしながら彼はかつて自らを「2つの全く別個の生活を送る者」として規定したのだった。アメリカの大学教授としての自分と、アメリカとイスラエルの政策に対する激しい批判者、およびパレスチナ問題の激しい主張者としての自分、である。イスラム文明の支持者である彼は一方で、監督派教会に属するキリスト教徒であった。さらに、音楽評論をも行う優れたピアニストでもあった。

1977年から1991年まで、彼はパレスチナ民族会議内で、どの勢力にも属さない、完全に独立した議員であった。会議のメンバーのうちのほとんどは、主要なパレスチナの組織に属していたのである。主なものはアラファト氏の率いるパレスチナ解放機構だが、議員のなかには当然、パレスチナ解放人民戦線のようなテロリスト集団の信奉者もいた。

パレスチナ人の状況は、犠牲者そのものです」──1989年、サイードがインタビューに答えた記事がニューヨーク・マガジンに掲載されるや、その記事は中東をめぐる嵐のような論議の中心に彼を投げ込む事となった。「彼らの土地は奪われた、ということです。暴力とテロリズムによってその行為がなされたというのは容易に理解できることです」と彼は発言した。「パレスチナ人への殺戮行為が拡大する中でイスラエル人が行っていることは、パレスチナの人々に対するさらに恐ろしく不正な土地収奪の継続です」。

さらに彼は付け加える。「私は、いかなる形態であろうと、テロリズムを否認します。パレスチナ人民の行為としてのテロリズムだけではなく、イスラエルの行う難民キャンプへの爆撃というテロリズムにも」。

イードはニューヨークでは有名な人士であり、中東問題についての討論には常に参加し、パレスチナという母国の率直な代弁者であった。長年、彼はアラファト氏の熱烈な支持者であり、「民族自決という明白に正当な目標を掲げた真に国家的、民族的な運動のリーダー」と賞賛していたが、1993年のイスラエルPLO間のオスロ合意締結後は、合意がパレスチナ人にあまりに小さな領土しか与えず、さらにそれに対する権限をほとんど与えなかった、としてアラファト氏に対する痛烈な批判を行うようになったのであった。

オスロ合意後、彼はパレスチナユダヤ人を完全に分断して国家を設立するなどということは、いつまでたっても実行不可能であると主張した。彼は、両側の感情がそれに反対することを認識しながらも、最良の最終的解決策として、二民族による単一国家の可能性を主張したのである。
「私たちは今この瞬間から互いに平等な権利を持つ市民として共に信頼し、真に民主主義的な方法で土地をを共有することについて対話を始めるより他の選択肢はない」と彼は1999年、ニューヨーク・タイムズに寄稿したエッセイの中で述べている。「互いの存在というものが永遠に続く厳然とした事実であり、そういうものと覚悟して問題を扱わなければならない、と両方の民族──苦難に満ちた二つの民族──が決心しなければ、和解はありえない」

ユダヤ人などによる彼に対する批判には、パレスチナ民族会議における彼の側近を含むグループが行ったテロを非難するものがある。そのような人物の一人は、例えばPLO執行委員会のメンバーであるアブ・アバスであり、この人物はイタリアの観光船ハイジャックの実行責任者、さらに車椅子に拘束されたアメリカ人乗客を殺害した実行責任者と考えられている。ニューヨーク・タイムズのインタビューで、サイードはこの男を「堕落している」と吐き捨てたが、一方で彼はイスラエルのリーダーたち、ベギン元首相やシャミル元首相らを、女性と子供の殺害に責任を負うテロリストだとも主張している。

イードを支持する人々がよく引き合いに出す彼の政治的意見のひとつに、イランのホメイニ師による作家サルマン・ラシュディを暗殺せよという呼びかけに対する確固たる非難がある。またサイードは1991年にアメリカ主導の湾岸戦争に反対した際も、一方でイラクの独裁者サダム・フセインを「戦慄すべき恐怖の独裁者」と呼んだ。さらに彼は、シリアのアサド大統領に関してもしばしば同様の表現を用いた。しかしサイードは、その長い経歴のなかでは、アラブ人やアラブ世界の指導者に対する批判よりも、西欧およびイスラエルのアラブ世界に対する態度や慣習に対して、より批判的であった。

イスラエルとその支持者が見る中東紛争の核心は、イスラエルの存在自体を最初から受け入れることのないアラブ世界の認識と、イスラエルの安全保障に対して遍在するアラビア世界からの脅威そのものだが、サイードはこの問題をシオニズムの残虐行為とパレスチナの犠牲との関係性の上に捉える。
「全く単純な数の問題で考えれば、野蛮な行為で殲滅された人間および財産の数では、全くシオニストパレスチナ人に行ったことと比較できるものは何もありません。そしてそれと同じことを、報復という形でパレスチナ人はシオニストたちに行ったわけです」と彼は『パレスチナの問い』(1979年)で述べている。

最もよく知られ、また影響力があったサイードの著作は、1978年に出版された『オリエンタリズム』(邦訳・平凡社刊)であった。この書は彼の学問的な研究成果と政治的見識が融合したものである。その中で彼は、歴史というものを検証する観点を緊密にレイアウトしたが、彼の意見では、歴史とはとりもなおさず文化的な力──他者を定義する力──と不可分なものであり、その核心は他者を支配する政治権力と複雑に絡み合っている。彼が『オリエンタリズム』の中で概説した理論は、西欧世界の東方に対する視線が、対象を官能的で退廃的なものとして、また堕落した怠惰なもの、専制支配のもとにある遅れたものと認識しようとする偏見に満ちたものであることを具体的に例証したのである。
「西欧世界と東方世界の関係とは、複雑なヘゲモニーの変動を左右する支配力の相互の関係である」とサイードは『オリエンタリズム』の中で述べている。国土を収奪された民族としてのサイード自身の感覚に起因するものだろうが、彼の独自性は、植民地化された対象に対する植民地主義的支配力を強化する方法として西欧世界は「東洋」を発明した、ということを発見した点にある。

フランツ・ファノンミシェル・フーコー、あるいはクロード・レヴィ=ストロースのようなフランスの思想家たちの影響を受けたサイードは、アメリカのアカデミーに文化と権力の関係性を対象とした思考を導入した最初の学者の一人となった。彼の著作『文化と帝国主義』(邦訳・みすず書房刊)では19、20世紀の英国の作家たち──一見したところ非常に非政治的な、例えばジェーン・オースティンのような作家──が、植民地主義の文化的な合法化を推進したことを明らかにしたのである。サイードは、E.M.フォースターコンラッドキプリングのような作家が「作品化の過程においては、彼らの主な目的は帝国主義的支配に疑問を呈することではなく、またそれらに対する注目を妨害することもなければ先取りすることもないがゆえに、多かれ少なかれ結局は帝国を維持することに従事している」と主張したのであった。

イードの残した全ての仕事は、常に東洋と西洋双方にまたがる彼の経験から引き出されている。

エドワード・サイードは1935年11月1日にエルサレムで生まれ、現在は主要なユダヤ人地区のうちの1つである、厚い石壁に囲まれた家の並ぶ一郭で恵まれた幼年期を過ごした。国連がエルサレムユダヤ人とアラブ人の居住区に分割した後、アメリカで暮らしたこともある成功したビジネスマンであった彼の父親は、1947年に家族をカイロへ移住させた。12歳のエドワードはカイロのアメリカン・スクールに入学した後、エリート養成機関であったビクトリア・カレッジに進学した。彼のクラスメートの中には、後のヨルダンのフセイン国王や、俳優オマー・シャリフなどがいた。1951年、両親は彼をマサチューセッツのマウント・ヘルモン・スクールへ入学させ、その後はプリンストン大学に進み、1964年にハーバードの大学院で英文学の博士号を取得した。その前年、コロンビア大学の英文学専任講師になっていたサイードは、1970年には正教授となった。1977年、彼は英文学と比較文学の教授となり、その後、大学教授である限りコロンビア大学における最も学術的に高い地位であるオールド・ドミニオンファウンデーション・プロフェッサーの称号を賦与されることとなった。

イードの最初の著作は『ジョセフ・コンラッドと自伝の虚構』である。この著作で彼は、文化と帝国主義についての関係性について研究を開始している。彼の2番めの本『始まりの現象──意図と方法』(邦訳・法政大学出版局刊)は、彼が言うところの「新しくかつ慣習的」なものを作家がいかなる文学的インスピレーションによって実現するのかを検証するものであった。「ライブラリー・ジャーナル」誌においてリチャード・クツコウスキが「モダニズムの持つ意味についての独創的な探求」と賞賛したこの書は、1976年にコロンビア大学のライオネル・トリリング賞を得た。そして次の著作が『オリエンタリズム』であり、オリエント世界、特にアラブ世界のイメージが、西欧の矮小な想像力によって作られた品位のないステレオタイプであるという理論を備えたものだったのである。

ジョン・レナードは、ニューヨーク・タイムズの書評においてこの書を「単に説得力のあるものではなく、決定的なものだ」と賞賛した。『オリエンタリズム』という著作は、サイードアメリカとヨーロッパの大学に多大な影響を与える人物へと仕立て上げたのである。彼は一種の知的ヒーローとなり、特に左翼陣営の若い学部生や大学院生にとって『オリエンタリズム』は一種の知的信条の書となった。そして、ポストコロニアルスタディーズと呼ばれることになる研究領域を切り開いた、記念すべき書ともなったのである。

イードの議論の中心となるのは、アジアに対する、特にアラブ世界に対する客観的に中立な学問領域が本質的には存在しなかったという見解である。西欧世界における東洋研究は、彼の見解では、非西欧世界に関する系統的な偏見を、ある種の決まり文句で生産しているに過ぎないということになる。

啓蒙主義以来──とサイードは言う、「全てのヨーロッパ人は、東洋に関して語ることができる事象上においては、人種差別主義者であり、帝国主義者であり、そしてほぼ完全な自民族中心主義者であった」

この見解は、何の疑いもなく受け入れられるということはなかった。著名な中東問題専門家の間でも、真実を含んではいるが、その主張には誇張された大袈裟な点が多く、かつ極度に単純化されすぎているとして拒絶されたのである。

ニューヨーク・タイムズ・ブックレヴュー」の中で、イギリスの歴史学者J.H.プランブは「これ見よがしに専門用語浸けで書かれていることはいかにも残念だが、本書にはそれを補って余りある、素晴らしく知的な刺激的なものが存在する」と書いた。しかし一方でプランブとその他の評者は、サイードは西洋と東洋の歴史上の関係を実証的に検討する努力を怠っているし、また“西欧の想像力”における「東洋」概念の、何が誤りでカリカチュアライズされたものだったのかを整理する努力をも怠っている、と評した。つまりサイードは東洋学者たちが単に西欧の文化的優勢と帝国主義の要件を満たすために「東洋」を発明したと決めてかかっており、東洋固有の問題に取り組んだ学問の豊かな蓄積を無視した、と主張したのである。
「サイードオリエンタリズム』の悲劇」──と、バーナード・ルイスは評した。中東研究の代表的な研究者である彼は、「それは現実的に重要な真の問題を、政治的な言説と個人攻撃のレベルにまで引き下げてしまったことだ」と述べた。

コロンビア大学での年月の間に、サイードパレスチナの国土回復運動のスポークスマンとしてより活発な役割を果たすようになった。1977年にはパレスチナ民族会議のメンバーになり、1988年には新しいパレスチナ憲法起草にも携わった。ほとんどのアメリカのイスラエル支持者には急進派と見なされていたが、パレスチナ人の間では、彼がイスラエルの権利を認めることによって中東問題の袋小路を打破するようにアラファト氏に促したと噂されており、穏健派という評価が定着していた。自分自身では常にインタビューなどで、アラブとアメリカという2つの文化によって影響を受けた、どちらにも完全に属することのできない永遠のアウトサイダーであると発言していた。

「私は、もっぱらひとつの国家の国民であると思ったことはない。また、根拠なしに他者を"愛国的に"一体視することなどできない」とサイードは1991年に「ネーション」誌上に書いている。

パレスチナ防衛のために政治的ステートメントを出し、インタビューに答えるような機会が増えるにつれ、サイードは突出した存在になるとともに、テロリズムを支援したとして彼を非難するイスラエル支持者たちの攻撃に曝されるようになった。ユダヤ防衛同盟による\"殲滅対象リスト\"に加えられていたという話もある。

イードの幼少期の生活を数年にわたって調査したイスラエルの学者ジュスティス・リード・ウィナーは、1999年の「コメンタリー」誌の記事で、サイードが幼少期の伝記的事実を偽造していると主張した。サイードの幼年期の家はカイロにあったにもかかわらず、1947年のイスラエル国家設立によって悲劇的な終焉を迎えたパレスチナでの幼年期の話を語っているというのである。
ニューヨーク・タイムズのインタビューを受けてサイードは、エルサレムでもカイロでも自分が同じように育ったことを否定したことはないと答えた。「私は、どう考えてもそれが重要な問題であるとは思えません」とサイードは言う。「私は、自分のケースを、問題の象徴として取り上げたことはありません。私は、私とは全く異なる同胞の人々の状況について述べているのです」。
かつて「コメンタリー」誌の記事において、\"恐怖の教授\"というタイトルの元に彼が取り上げられた時には、ユダヤおよび非ユダヤの両陣営から、猛烈なサイード擁護の声が上がった。「テロリスト政治の信奉者としてサイードを描写するのは、学者および政治的闘士として彼の生活と仕事を甚だしく歪曲している」とリチャード・フォーク(プリンストン大学政治学者)は書いている。

1991年、サイード白血病のため通院を始め、静かにパレスチナ民族会議から去った。しかし1994年、イスラエルPLOが和平協定に署名した際には、イスラエルへの過度の譲歩についての批判だけではなく、アラファト氏の専制的な支配体制の腐敗に対し、怒りに満ちた声明を発表した。サイードアラファト氏について「彼は民族を奴隷化してしまった」と述べ、PLOについては「信頼性のない、モラルと権威に欠けた指導体制であり、また、私は現在のPLOの体制が敗残者と過去の人物によって構成されていると考えていないパレスチナ人を知らない」と述べた。

近年、サイードの著作はさらに政治的なものに傾斜していった。1979年には『パレスチナの問い』を発表し、さらにその2年後には『イスラム報道──ニュースはいかにつくられるか』(邦訳・みすず書房刊)を発表して、西欧人がいかにしてアラブ人を\"「紛争」──根拠もなく、愚かしく全く無益な紛争と同義であるもの\"として描き出しているかを明らかにしようとした。

イードの最後のまとまった著作は、『国土纂奪のポリティクス』である。この著作のなかで彼は、パレスチナに対する西欧の姿勢批判をさらに強めただけでなく、パレスチナ内部の指導体制を不品行で堕落したものと指摘している。デヴィッド・シプラーはニューヨーク・タイムズで本書を書評し、以下のように書いた。「サイードの本を読むことは、何時間も耳元で叫び続けられるようなものである。そのためその不協和音の猛攻の下に流れる本質的なメロディーを聞くためには、彼の静謐な洞察のパサージュを認識するための注意深い耳が必要となるのだ」

イードのマイーレ・ジャヌスとの最初の結婚は破局に終わった。彼の遺族は妻のマリアム・コルタス、息子のワディーと娘のナジラである。