激情に流されて

「哲学の劇場」からメルマガ「哲学の激情」が届く。順調な発行ぶりは重畳至極だが、なんとか隔週刊ぐらいにならんかなァ。大変なのは重々わかっていながら、無論勝手な希望である。

メルマガ紹介・登録ページを見ていたら、なんとメルマガ命名者が私だということになっとるではないか。何年も気がつかなんだ……オレは無意識に命名もできるのか……しかし「単なる駄洒落」と指摘してあり、胸をなで下ろす。

メルマガ末尾に、サイードの訳者でもある中野真紀子氏のサイトが紹介されている。そこではサイード追悼記事リンクが中野氏の無念を反映するかの如くの綿密さで集積されており、暗澹たる思い。ひとつひとつ読んでいく。
「激情」には、"その不在を前提としてますます強く彼(の作品)とともに思索すること。それが喫緊の作業であるように思います"とあるが、まさにその通りだろう。この十数年はアメリカでも日本でも、大状況としては「知識人」の総退場とある種のシニシズムの跋扈という感のあることは誰しも否定しないと思うが、サイードだけが一人愚直に真正面から自らの知識人としての立場を正当に行使していた。(他に何人か名前を挙げたくなるだろうが、ニューヨーク・タイムズの言うところの「都で有名な人士」という位置どりは、なかなか得難いものだ。)

ニューヨーク・タイムズの追悼記事の微妙な書きっぷりに、中東を巡る複雑な方程式を感じ取ることはできるが、捧げられた追悼の長い列と彼の仕事の残した様々な影響は、中野氏のサイトを巡らねば分からない。今日もパレスチナ人の自爆テロとその報復ミサイル攻撃あり。 暗澹。