本日の不届者(二人)

生徒に模造刀振り下ろす 「礼儀教える」と中学教諭
大阪市住吉区の市立大領中学で今年4月、2年生の担任の男性教諭(54)がホームルーム中、鉄製の模造日本刀を男子生徒の首に振り下ろす動作をしていたことが24日、分かった。
同中学によると、教諭は「生徒に礼儀作法を徹底するための小道具に使った。日本の礼の精神を伝えたかったが、行き過ぎがあった」などと釈明しているが、学校側は教諭を厳重注意した。
同中学によると、教諭は同月9日朝、教室で男子生徒1人を前に呼び出し「(お辞儀で)頭を深々と下げるのは、首をゆだねるぐらいの気持ちを相手に見せるということ」などと話しながら、鉄製の模造刀(全長約1メートル)をさやから出して、頭を下げた生徒の首に振り下ろすしぐさをしたという。(共同通信

居合では始めの礼の時、端座して前方に置いた刀に深々と一礼するが、決して首をうなだれて礼をしてはならぬ、という。何故かと師範に訊くと、前方から首に打ち下ろされたらどうする、とのことである。「首をゆだねる気持ち」など屁にもならぬ。礼の時に手を前の床に揃えなければならないが、なるべく刀を持つ手を自由にするため、左手から先に床に置き、揃えた両手も右手から先に腰に戻すのである。刀を持つ者を支配しているのは、透徹した合理性のみである。慮外者めが。

ところで私のような、いかにも武道から一番縁遠いように思われているであろう人間が、如何にしてそのような領域に足を踏み入れることとなったのか、であるが、まあその詳細は措くとして、簡単に言えばどうすれば脳を脱した非中枢的身体を実感できるか、を現実に試してみたかったのである。わたしの場合は。内田樹オジサンも似たようなところを語っておられますね。

さて、武士道とは単なる倫理性の言説であって、奇妙に聞こえるかもしれないが、武道とは本質的な関わりを持たない。同じく「競技」とか「スポーツ」という言説の枠組みも武道を捉えることはできない。ところでこの国のインテリは儒教導入以降延々と身体軽視を続けてきたので、身体を語る哲学を持たないのである。武道を巡る近世以降の文献も、貧相な宗教性に支えられた秘伝を巡るあれこれが語られるに過ぎず、結局師資相承の身体言語の中にのみ豊かな身体知の資源が埋もれていたわけだが、近代という時代は、「明示され得ないものは存在しない」というテーゼを徹底させる訓練を我々に施した結果、武道とインテリジェンスはまさに相剋の状況に至ったのだった。ほんと現代思想をバックにした内田おじさんが登場してくれて、助かったんである。
まあ正直言って、もうショボクレタ脳で考えるのも限界が近づいたんで、体でいろいろ考えてみようと思った次第。脳で考える方の「武道論」そのものについては、やはり実際に動いてみて(ジャンルはちょっと違うものの)、内田樹おじさんの書かれたものに非常に共感するところ大である。ってまた昨日は稽古サボっとるんである。ダメじゃん。