忙中閑ありて

終日、家に籠もる。

先日赴いた、横浜美術館における「中平卓馬展」で買い求めた『中平卓馬の写真論』(リキエスタの会刊)を集中して読み、考える。

中平卓馬の写真論

中平卓馬の写真論

この展観は、かつてない規模で彼の写真家としての業績を回顧したものだが、先日の「森山大道──光の狩人」展(於川崎市民ミュージアム)と呼応したものといってよいだろう。

森山大道中平卓馬が際立って相違するのは、中平が、かつてその転換点においてかなり高度な写真論を集中して発表した点である。写真表現自体では「ブレ・ボケ」派と一括りにされるが(『PROVOKE』で活動を共にした点から勿論それも正しいのだが)、注意深くその印画を見ると、先日も書いたように森山の印画技術はかなり繊細である。無論それが写真家の暗室助手として鍛練を積んだ結果であることは確かだが、理念先行とも取れる中平の方法論と、確実な写真技術を背景にした画面構成先行型の森山とは、根本的な写真表現の手法に相違がある。もちろん森山にも発表した写真論はあるが、中平ほど観念論的なものではない。今回の中平のプリントは、彼が自分の作品を一気に焼却した一件の影響もあり、どれが彼の意志により注意深くコントロールされたものなのか分からないが、少なくとも観察した限りでは、プリントによるコントロールが前提とされた作品自体はもとからごく少ないと思われる。
つまり作品自体においては一種の転倒があり、森山のブレ・ボケは一度スタティックなものを通過した後の、観念論的なものである。そして中平の印画のブレ・ボケは、理念的なものを通過する前に、すでに情念的なものとしてコントロールを前提としないブレ・ボケが要請されているのである。後者においてはさらに検討が必要だろう。なぜそう言えるのか。高度な写真論を先ず構えているのならば、森山と同じく、様相は違えどスタティックなものを通過しているのではないのか? ここで大きく問題となるのが、彼が編集者として、先ずメディアと関わることを開始したという点である。細かい論証を抜きにしてしまえば、編集者としての閲歴は、彼が表現一般と関わるスタンスを決めてしまったと言うことができる。表現者として血ぶくれするようなカオスを抱えていた彼は、その噴出口をまず文章表現に向けていたことは間違いない。それは彼の文章を一読すればわかることである。そして、それに飽き足りなかったことも。その強い情動は、既にしてブレ・ボケと一体化していたかのように見える。中平にとって写真は、編集者として世界を眺めた上で発見された「手法」であった。森山のように写真内部から自生して掴み取られた表現ではなく、外部から写真に侵入して略奪したものを、彼は自分と社会を繋ぐ表象として過激に展開したのである。

上記はあまりに短絡させた粗雑なマッピングだが、全く的はずれでもないだろう。彼が倒れて一部記憶喪失になって後の日常は、さらに別の文脈で語らねばならないだろうが、単純に被写体に向けた執着で言えば、様々な視線のイメージが共通してはいる。ただ、その何か底が抜けてしまったような近年の写真に共通するのは、ほとんどが望遠気味のレンズで、同じような縦位置で風景が切り取られている点である。それは姿勢としては対象に肉薄するスタンスではなく、ある種仙人のようになってしまった彼の存在感同様、何か浮遊する心霊にカメラを預け、構えさせたような印象さえある。闊達と言うにはあまりにすっ飛んでしまった、さらに大袈裟に言うなら、禅味まで感じさせる写真群と言ったらよかろうか。そこに我々の視線のカタルシスは、既に求めようがない。これは中平卓馬自身の、中平卓馬のための写真なのである。それを理解しないでは、批評のしようがない。これらは表現としては全く完結していないのである。

ここまで書いて、車で無目的に多摩の山の上に出かける。
「一本杉公園」という、なかなか飄逸な名前を付けられた公園を見つけ、立ち寄る。

缶コーヒー持ってウロウロしていたら、偶然遺されたという中世の鎌倉街道の端切れが整備されているのを公園のはずれに発見し、例によって侵入。切り通しの風情が、かつて人々が往還した気配を濃く漂わせている。木々に覆われ、暖かい木漏れ日の地面は一面の落葉。里の秋であるなあ。しつこく例によって、落葉の布団に横たわる。体の上を、馬上に大鎧の武士達が駆けてゆく。