弟子、その他の物語

先日八重洲大丸での「中原淳一展」を念のためチェックしたあと、有楽町マリオンまで足をのばして「近代写真の生みの親 木村伊兵衛土門拳」展を参観したわけだが、どうにもこの「近代写真の生みの親」という意味がわからない。どう転んでもこの二人は「近代写真のある段階における幸福な日本的帰結」とは言えるだろうが、生みの親とはこれ如何。わからん。

それはそれとして、参観した結果は、「私は永遠に木村伊兵衛に憧れ続けた土門拳の弟子であった」という心情。やはり、そうだったんだ、という再確認の感慨。中学生時代、土門拳の熱血指導を受け(たつもり)、もう一歩踏み込めぇー! ギリギリまで絞り込めェー! 対象と対峙しろォー! と怒鳴られながらカメラ担いで40キロ行軍(したつもり)。暗部は黒々と黒く、明部はきりっとした白さに。シャープな構成的な画面。そういう写真を、撮らねばならないと信じ、少年兵は日々鍛錬に明け暮れていた。

木村伊兵衛の写真などは、何が何やら、よくわからなかった。と言うよりも、記憶にない。高校、大学時代もわからなかったのかもしれない。しかしその頃になると、次第にその作品群が、ヤバイものに見え始めて来たのは確かだ。

つまり、

これ、天才の所行じゃないのか。ひょっとして。

と、そのように、予感し始めたのである。それは全く、私のそれまでの努力(と言うのは噴飯物ではあるが)を否定する類の予感だった。土門の写真は、ひょっとすると、その表層の部分だけが、中学生の私にわかりやすかったに過ぎないのではないか。

その予感は、同時に自分には全く写真に対する有効な感度が無いのではないか、という恐怖を伴っていた。年齢を考えると、そんな時期の即断は早合点のように思えるかもしれないが、予感を伴いながらも一方でまだその当時木村伊兵衛の写真が「わからな」かったのである。そのことは、致命的に思えた。

木村伊兵衛の感性は、確実に自分にない。わからないものには憧れる。わからんなりにそのスナップ技法などを追ってみると、そこには信じられないような奈落が待ち構えていた。要は天才であることを再確認したということである。写真という表現は機械を媒介にするのだから、不器用な自分にもなんとかなると長く信じていたが、そこにも当然ながら煌めくような才気で追い抜いていくような奴がいる。

ひょっとすると土門も、同じようなことを考えていたかもしれない。しかし彼は結局、煩悩を断ち切り、全て努力でなんとかなる、と、最後まで突っ走ってしまった。それはそれで形の違った才気であるかもしれない。その粘りも、自分にはなかった。

オトナになると、木村伊兵衛の写真は、全てがいい。十全にその「良さ」を堪能できる。もう血走った目で見ないので、細部が見えてこない。撮影する木村の「気」だけが見えてくる。それが実にいい。階調の柔らかなプリントと、ライカ特有のボケ味が、この作家のためだけに作られた写真環境のような幸福感を漂わせる。

しかし弟子としては、土門のプリントの漆黒のような黒さに、首を垂れる。暗室で何やったって、ガキにはこんなプリントは焼けなかった。所詮、でたらめである。木村伊兵衛の写真に永遠に憧れつつ、持ち歩くカメラの絞りは、今もギリギリまで絞る。

木村伊兵衛と土門拳 写真とその生涯 (平凡社ライブラリー)

木村伊兵衛と土門拳 写真とその生涯 (平凡社ライブラリー)