ヤンキー、編集者になる

と書いてみたかったのだ。流行ってるらしいし。

しかし半ば本当である。いやヤンキーの方が。「編集者」の方が当然ながら嘘くさいのである。

「日本人の半分は『銀蠅的なもの』を必要としている」と喝破したのは故ナンシー関であるが、こう宣告して去っていった彼女の姿に、我々は小林秀雄丸山真男に初めて接した時のような、「批評」というものが本来的に持つ凄みを感じ取らなければならない。のである。

そのことはひとまず措く。←最近社内でこの表記に凝りすぎ、いつの間にか未処理案件が山積みである。まあそのこともひとまず措く。先ずはヤンキーである。

私は不穏な都市のさらに不穏な麗しい地域で生まれ育ったので、孟母三遷叶わぬ母親により、小学校から特殊教育を施された。イートン校に入れられ(ウソ)、地元の学校に行ってないんである。引っ越しゃいいと思うんだが、なんかまあいろいろあったらしい。しかし当然ながら学校から帰ると、私の周囲はやんちゃな人々で溢れていたのであった。どこでどう学校生活を送ろうと、デフォルトはガラ悪く、午後3時以降はどうにも容易ならざる人付き合いをこなさねばならぬのである。
先年同郷の知人に聞いた話では、当時地元の交番に、顔写真入りの「K(地名)中学校名簿」が完備されていたとのことである。日々周囲で発生する騒動において適宜リファレンスしなければならないからである。ヒドイ人権蹂躙。今なら新聞ネタでしょう。で、まあその名簿の人々と中学、高校とそれなりにつきあわねばならんので、ヤンキー文化の観察者とならざるを得ず、対象への転移も発生するのであった。

うーむ、ここでまた思い出したが、高校生当時私が盗んだバイクを乗り回していたという話をいまだに各所でバラ撒いている輩がいらっしゃるようである。あれは「他人が盗んだバイク」を私が「それと知らず借りて」乗り回していたということなので、重ねて厳重に訂正を申し入れておく。しかしカジュアルにそのような事象が惹起される環境であったことは確かであり、集団的暴走行為に加担した経験を抹消しようという欲望に抗わなければならない私であるのであるのである。まあ今でも飲酒時等に物言いの端々が思わず知らずはすっぱになり、インテリ方面と会話していて時に妙な顔をされるので、このあたりに所謂「地金」が覗くのであろう。
ついでながら急いで付言するが、私は友人たちのバリバリ系ファッションには何らシンパシーを感じることができず、服装的には当時の所謂「ヘビー・デューティー派」であった。……なんと懐かしい響きだ。マウンテン・パーカーのフードを被り、フードのヒモをぐりぐりに縛ってサングラスをかけノーヘルで改造バイク(他人の、である)に乗っていると、まるで中核派アジテーターが族車に乗っているような珍妙な姿になるのであった。

友人たちは、そのような中途半端な私を、いつも笑うのでありました。

思い出はちょっと遡って、中学生の頃だったか。いつもは当然帰宅後制服を着替えて遊びに出て行くわけだが、何かの用事で制服のまま、私の住んでいた地域に隣接したごみごみした──としか今言いようがない──地域の友人の家に行ったことがある。その家の母親はいつもきりきりと忙しげに立ち働いており、たまに会ってもほとんど無関心な一瞥をくれるだけだったが、その折は玄関先の制服姿の私を見てふと足を止め、ゆっくり歩み寄って、この辺には、もうあまり度々来ない方がいいのではないか、というような事を優しげに告げた。私は反射的に、自分の、地元の学校とは違う、袖に白線が巻かれた、贋エリートじみた紺サージのけったいな学ランの制服に原因があるという事に気付き、一礼してそのまま家まで駆けた。一瞬にして自分が異物、というよりもなにか異様な、幼年期に流行ったTV番組「ザ・インヴェーダー」に登場する隣人の顔をした侵略異星人、のようなものに化したかに思えたのである。
その日から彼らとのつきあいは「意識された」ものになったように思う。当然彼らにしてみれば、にぶちんの私などが気付く前に、とっくに意識したつきあいだったのだろうが。

そして年を経る毎に、私はそういう周囲の中途半端な観察者になっていったわけである。だがいつまでたっても特に地域の空気から抜け出るでもなく、街角で出会う彼らと世間話を交わし、近況を尋ね、難儀な人々の様々な噂を仕入れ、ゲラゲラ笑うのだった。中途半端な私を許容した彼ら、と言うよりもその中途半端さを殊更に言挙げして面白がり、珍重してくれた彼らは、オトナだったと言うしかない。後年まで出会う度に気を遣ってもらい諸般の悪事に誘っていただいたが、軟弱な私がついて来られない事など先刻承知だったのであろう、それら出会う度の会話に再現される彼らのふざけた日々は、むしろ観察者たる役割を振られた私への、「おっ、あいつに言っとかきゃ、メモメモ」とでもいうような、なかなか説明しづらいが、義務的な定例報告じみたニュアンスが感じられた。ひょっとすると私自身が、充満した彼らの負の空気を抜く、ひとつの出口のようなものだったのかもしれない。

さてさて。それでその後私は、無論純粋なヤンキーでもなく生粋の編集者にもなれず、やはり中途半端なナニモノかであり続け、そしてもちろん現在も、絶好調で中途半端なのである。反省である。