∀組版論

先日の花見の宴で同席したM印刷の「全身営業家」T氏に、「おたくでやってるアクマ書房さんの単行本で『テクストはマチガエル』ってあったじゃないですか。あれ本文の組版、なんか端正でしたよね。書体なんだったかわかります?」と問うと、「そうあれあれ、あれですね岩田明朝じゃなかったでしたっけ? アクマさんもいまだに写研の書体をお好みなんですよね。スグ調べますから」と、もう腰を浮かしかけている。慌てて袖を引っ張り、いやついでの折でいいですからと宥めるも、イヤイヤお離し下され梶川殿、武士の情け〜、みたいな勢い。スゲエ。最近出番の少ないN印刷営業「ある意味変な話」アベに爪垢煎薬を仕込んでやりたい。

今日朝一番、当のアクマ書房の組版指定書の写しがT氏によって、私の手元に届けられた。他社の指定書など見るのは初めてなので、なかなか興味深い。弊社のものと特段の相違点は無いようではあるが、特徴的なのは、版面の面付け位置指定が存在しない事である。前回の組版論で触れたように、日本語組版においては文字間の関係性の方が重視されるので、これはむしろオーソドックスな組版指定スタイルではあるが、DTP優位の現状ではすでに珍しい指定書といっていいだろう。原則的にDTPにおいては、ページ内のどこに版面を置くかを先ず指定しない限り前に進めないワークフローとなっているからである。つまりアクマ書房においては写研の書体を使うノンDTP組版で進行する場合、かつての活版同様、校了して印刷過程に入る直前にエイヤッとページ内での版面位置を決めているということだろう。

大昔の事だが、位置を決めて青焼き(試し刷り様のもの)が出てきたのを見て、あまりに版面がノド寄りの、要するにページを綴じている部分に文字が隠れそうになっているのに気付いて青くなり、制作O部長に土下座してやり直してもらったことがある。既に活版組みでなかったとはいえ、当時の事であるから、400頁の本ならば400枚の頁フィルムを版から剥がしてずらし、また版にテープで張り直すわけである。O部長などは印刷業界ラスト・サムライのひとりだったから、土下座ぐらいでは知らぬふりである。当方に一瞥もくれず、「読めるから、エエ」と低く無愛想に言うと、また競馬新聞に目を落とすのである。やむなく私は机に飛び乗り、バアッと前をはだけて、机上の印刷用金属製1メートル物差しを手に「部長ォ〜ッこの皺っ腹かっさばいてお詫びを〜ッ! どうかお聞き届けを〜ッ!」と叫ぶのである。O部長イヤそうに逃げ出すので、すかさず耳元で「川崎競馬のイイ情報がアリマス」等、懐柔にかかるのである。大変だったなァ……。話がどんどんズレていくが、印刷業界とは、端的に言って職人・徒弟の世界である。DTP業界のコンピュータ主体のモダンで先進的なイメージとは水と油であり、編集業界の疑似インテリ臭の世界とも本来接点は見当たらないと言っていい。私などは職人の子なので、編集稼業を生業としていても、印刷職人の世界に違和感なく入り込んでいろいろ学んだわけだが、それらのティップスは結構ディジタル時代の今でも役に立っている。当然ながら電子化による情報伝達手段の洗練とは、所詮「情報そのもの」の洗練なんてものではない。DB化し数理化したって見えてこないものは永遠に見えてこないのは別に言挙げするまでもないんだけども、印刷して製本した形態ってのは、形態そのものが語るんですなあ。以上面倒なんで飛躍してますが。

ところで活版印刷の再末期に、コンピュータと連結した全自動活版組版機の試作がくり返されていた事を御存知だろうか。一部は実際に稼働していたのである。もうこれは何度もこの比喩繰り返して恐縮だが、「ハイテク蒸気機関車による新幹線敷設への試み」である。昂奮するなあ。そのまま奇形的に大発達していて欲しかった……大騒音と油と鉛をまき散らしてワークステーションと直結した組版機が高速回転する……「メトロポリス」みたいだなァ。

しかし、私が何を語っているのか、伝わっているんだろうか?