みりたり日和

九段下、俎橋の欄干から桜花で覆い尽くされた日本橋川の川面をなんとなく覗き込んでいると、通りすがりに私の顔をちらりと盗み見、何事かと視線を川に落とす人もある。九段会館の方角から歩いてきたステッキの老人が私の前で足を止め、靖国の桜ですね、と一声残してゆっくりと歩み去った。そうだろうか。どうも距離がありすぎる気もするが、いずれにしろ周囲には灰色のビル群と頭上を覆う首都高速の圧迫的な高架があるのみだから、この配色は一種異様の感に打たれる。

九段会館一階にて、N翁と会談。旧偕行会館──陸軍の親睦団体のホールであるゆえ、うろうろしているのは旧軍人めいたおじいさんばかりである。
N翁も旧陸軍軍人だ。
満州航空士官になったはいいが、もう飛行機なんかありゃしませんでしたよ──述懐するN翁の口吻には、私程度の者が軍隊経験があるなんぞ言い張るのはどうも、という含羞が感じられる。しかし共通の話題もないゆえ、そのあたりのことをぽつぽつ話す。

話題が尽きた頃、まあそういったようなことで、我々の集まりで講演というか、まあ話をしてくれますか、と依頼される。既に内諾し、そのために会談を設定されたのだが、改めて面と向かって依頼されると、多少、窮する。わたくしがまあ、お役に立てるとしたら、みなさん全員が御存知というわけではないであろう日本の歴史上のごく下らない、いや下らないとは言い過ぎかもしれませんが、そんなようなエピソードを、だらだらと並べ立てるぐらいのことでしょうか、と申し上げる。いやあ、それで結構ですよ、とN翁お笑いになる。しかしみなさんなにしろ私よりもはるかにお年の方々でしょう、と問いかけるも、N翁ただ笑っている。どうも本件の仲介者は、私をいかなる人物と売り込んだのか。気鬱だが、義理と人情の板挟みたぁこのことだ。ヤッチマイナー! と叫ぶ無責任な仲介者の顔が脳裏に浮かび、絞め殺したくなる。が、詮無い話だ。

N翁と別れた後、神保町での次の約束まで間があるので、先程の老人の言を思い出し、坂を上って靖国の桜を見る。風に散り風に舞い、空間全体が発情したような色合い。

思い立って靖国附属、改築落成した遊就館に赴く。
欧米各国にはどこでも国立のwar museumがあるが、平和国家ニッポンには斯様な物騒なるモノはない。で、この遊就館がその代わりを務めているというわけである。増改築した設備は最新の展示空間と化しており、日露戦争コーナーなど立体音響で爆音炸裂のイケイケである。が、当然ながら時代が後になるほど湿っぽくなる。嗚呼貧相なる個人装備よ。貧相なる戦争指導よ。暗澹たる気分だ。

出口近くには、お約束のミュージアム・ショップが控えていた。ここは、なかなか秀逸である。私は日本海海戦で掲げられたZ旗の安物レプリカを買った。決戦の折はこれを掲げて突入しよう。問題はいつも私が決戦を回避してしまうことだが。

ミュージアム・ショップの隅に積まれたプラモデルの箱のなかに、戦艦大和があった。大昔作った記憶がある。しかもそいつの底に穴を空けて、川に沈没させたのだった。私はプラモデル類の艦船は沈没させ、車両は爆竹で破砕させるのが趣味だったのである。その目的のため黙々と火薬を集積する私を、友人たちは多少気味悪がっていたようにも思うなあ。
大和の箱絵を見ながらそのような記憶を辿っていると、私の視界の横から手をにゅっと伸ばしてきて、戦艦大和の箱をトントントンと人差し指でリズミカルに叩く者がいる。見ると、しわくちゃの白人の老人がモガモガ言っている。聞き取れないが、どうも英語のようなので、何度も聞き返すと、どうも「ワシはこいつを見たことがあるんじゃ」と言っているらしい。「……成程。私が考えるところでは、貴方は、かつて彼女を(船なのでshe)爆撃した、1945年に」「exactlyじゃ。ワシはあの時ナントカ(聞き取れず)雷撃隊におったんじゃ。こいつのようなデカイ船は見たことがなかった。島のようじゃったぞ」「成程。大和は沈んだ。貴方は生き延びた。goodです」「(聞いてない)何本torpedo命中したか判らないぐらい当たったぞ。しかしなかなか沈まなかった。偉大な船じゃった」
私もかつて撃沈しましたよ、と言おうと思ったが、くだらないのでやめた。言いたいことを言うと爺さんはよたよた、おそらく家族であろう集団の方に歩いて行った。途中、右手にあるパイロットたちの遺影に気付いたのか、ゆっくりと背を伸ばして敬礼した。