美しき死体について

宮内庁近辺やら何やら、似合わないところをぐるぐるたらい回しで汗みどろ。どうなのだ。夏ではないか。すぐ日焼けするのが不愉快である。地黒なんである。日焼けして一層頭が悪そうに見えるのが余計不愉快である。

上野までよろよろ辿り着き、東京国立博物館に赴く。『弘法大師入唐1200年記念 空海高野山』展観に。
国宝30点近く、重文は100点以上である。まー降ろしも降ろしたり。高野山は完全にカラであろう。なんだかあまりに濃すぎて感覚が麻痺するぞ。デパートでウインドウショッピングしてるかのような錯覚に陥る。ガラスケースに貼り付きながら、あの重文指定されてない金念珠ぐらいだったらひょっとしてカードで買えるんじゃないかとか例によっての妄想が。ほすぃ。

しかし妄想はさておき、今展観は二つの国宝、《阿弥陀聖衆来迎図》と《仏涅槃図》(所謂「応徳涅槃図」)のために催された、と勝手に断言しよう。この二点の迫力ある巨大な(ホントに大きい)仏画は、「仏画なんて抹香臭くてナア」という方々にこそ是非、御覧いただきたいものである。

阿弥陀聖衆来迎図》にみる仏たちの躍動感は、比較的スタティックな平安仏画の中では一種異様な破格を感じさせる。気味が悪いほど立体感があり、空間の把握が多面的である。中心の阿弥陀は大きく描かれているが、不思議なことに存在感が薄い。阿弥陀の周囲を取り巻く菩薩たちの躍動感が、隠されたテーマのように思えるのだ。そのエロスを感じさせる薄ピンクの肌は、これから臨終を迎えようとする死者の元を訪れようとしているにもかかわらず、祝祭の華やぎに満ちている。実際彼女ら──女性にしか見えない──は楽器を抱えて、蠱惑的な笑みを浮かべ、騒々しい歌舞音曲のさなかにあるかのようだ。浄土こそが本来の生であるというイデオロギーが、末法思想の色濃い平安京の片隅でこの濃厚な絵画を生んだのだろう。その豊かさを感じさせる背景にあるのは貴族たちの、まあ「近代的自我」みたいなもんである。(「浄土妄想」と私は勝手に呼んでいる。)都の暗黒の中、この彩色豊かな、しかし全体のトーンは緻密に計算された来迎図が堂宇に掲げられたとしてみよう。蝋燭の炎に照らされ揺らめく本図の仏たちは、見る者を消失点にした逆遠近法になっているから、高速で来迎するように見えるに相違ない。一発でドラッグレス・ハイに至れる。浄土フェチにはタマラナイ装置であったに違いない。そしてその死後の世界は、現世以上に快楽に満ちているのである。本図にはその妄想が強く、美しく反映されている。

本来、密教世界は浄土思想と何の関係もない。この死の影の薄い美しい来迎図が何故高野山にもたらされたかについては数奇な話もあるのだが、またの機会に。それで、次の《仏涅槃図》である。

涅槃図は、仏画定番中の定番図様である。横たわって死んじゃったおしゃかさまを取り囲んでみんなが嘆き悲しんでいるというやつ。本図は言ってみれば、何千何万と描かれたそれら涅槃図の中の王様と言っていいかと思う。同じ「臨死」をテーマにしているが、《阿弥陀聖衆来迎図》とは比較にならないほど静かな、暗い、もの悲しいトーンでまとめられている。画面中に悲嘆のイメージが充ち満ちている。大声で泣き叫ぶ者の他に、よく見ると悲しみのあまり完全にアパシー状態に陥った者が見受けられるが、その表情のなんと美しいことか。呆然とどこかに立ち去ろうとする者がいる。発狂せんばかりの者がいる。釈尊の苦難に満ちた生涯をこの一瞬の描写で表現し尽くそうという絵師の情熱が感じられる、限りなく熱い絵だ。しかし、あくまでほの暗い色調のなかに画面は抑制されている。

いや、この絵の中で一点だけ、鮮やかなものがあった。横たわる釈尊の遺骸である。彼岸に赴いた彼の肢体は既にこの世のものならぬ、美しく透明な、何と言ったいいのか、神秘的なレモン色様に変容しているのである。高貴な死体である。
現在まで発行されたどの美術全集に収録された本図の釈尊の色も、この不可思議な色の再現に成功していない。私はこのような色を他の仏画で見たことがない。いや仏画に限らず、絵の中で見たことがない。
この美しい死体を、見にゆくべきである。

さて、ちなみに《来迎図》は4月25日までの展示、《涅槃図》は27日〜5月16日までの展示である。ああっ間にあわんぞ! 走れ同志よ! (《涅槃図》、私は山上にて対面済みなんです。)