墳墓記

関東とは古来、日本の中の異空間なのであった。西からの視線において、である。武蔵野はその中心をなす空虚であり、古代武蔵国は分国配置では東海道から切り離され、不自然に東山道にぶら下がる形の地理感覚を以て都から空間把握されていた。東海道は海を渡り、房総半島に直行するのである。武蔵野はどんづまりの、異界の袋であった。

と大上段に振りかぶったような構えでたじろがせるのが悪い癖で。

武蔵野の臍、府中市のはずれ、西府町という平凡な住宅街に、熊野神社という変哲もない小社がある。
なんとも、それ以外の表現の仕様がない。何の特徴もない寂れた社だ。
裏の不自然な小山がなければ、である。

鳥居の脇には築何年になるのか判別しようもないような古びた木造の集会所が建っている。室内の薄暗がりを透かし見ると、日曜の午後でもあり、どうやら近在の老人たちが2、3人座りこんで、のんびりと茶を啜っているようだ。
参道の真ん中に立っていた私が視線を本殿の方に向けると、中の一人が追うように声をかけてきた。あんたあ、あれを見に来たんだね? あれと言われて、即座に頷いて良いものかどうか躊躇したが、私は近寄って縁側に座り、すごいものが出てきましたね、と室内に水を向けた。老人たちは一斉に貌をしかめ、いやはや、という表情になった。全く面倒なことでねえ。こかあ江戸の新開地で、昔からただの野っ原だったんだけどねえ。甲州街道が川ん側からここに上がって来たときにようやっと開けたンだよ。ンなとこに不思議なもんだねえ。と笑うと、もうひとりが、あそこも子どもの時分にいい遊び場でね、オレあ随分、ほじくり返したよッ。怒られるねえ。
──思い出話に花が咲いたようなので、一礼して縁側を辞す。

老人の言うように、このような脈絡を欠いた場所に何故、という思いがする。参道を進むと、本殿の裏手に、まるで結界を張るかのように、一面に工事現場のような幔幕が張り巡らされたそれが見えてきた。

全国で四例目にして最古級といわれる、上円下方墳である。

報道では三例目というのもあり、曖昧だ。だいたい、この石積みの壇に築かれた異様な墳墓は、古墳と称すべきなのか。ただの三例しか存在しないものを、果たして形式として括ってよいものかどうか。
それはそれとして、私のカウントでは、既に関東に三例ある。川越山王塚、熊谷宮塚。そしてこの府中。
それぞれ武蔵野という、異界の袋の中の墳墓である。

発掘中の塚は、手術の中途で放り出されたような形で、切り刻まれ、堀を穿たれ、シートを被され、幕を回され、その恥辱に耐えるかのように鎮まっている。上円下方、その形はこの姿からは曖昧だ。初夏のような夕暮れの中、ゆっくりと周囲を検分すべく歩き回る。あまりに変哲もない漠々たる住宅の拡がりに、多少ならず唖然とする。多摩川沿いには、極めてわかりやすい古墳群が拡がっているが、在るべき場所に在るべき姿で存在するそれらに対して、この塚の空間的隔絶感と構造的断絶感はどうであろう。

急激に強い印象に襲われる。
バハオーフェンはその『古代墳墓象徴試論』において、古代墳墓の象徴世界にこそ人類の普遍的理念の源が保存されていると述べるが、この府中の片田舎でひとり、その証を得たような気分だ。
有り体に言って、この塚は、天壇である。武蔵野の、異界を統べる王の斎き祀る、大陸的な「天円地方」の空間認識を投影した天壇である。異界とは何か。それは朝鮮半島から渡来し、東国開発に使役され、荒蕪の地──関東に吸収されていった人々が祭祀し、秩序を保ち、営々と造り上げてきた空間である。この異風な武蔵野の王墓に眠る者は、連綿とこの土地を開発し続けたその人々の仕事を受け継ぎ、集約し、関東そのものを完成させたのである。その風土を、人文を、山野河川をも造ったと言っていいだろう。付言するならば、当然川越、熊谷とは強いネットワークで結ばれていただろう。その南北線は後世、古代的秩序に対する異空間たる鎌倉幕府を成立させ、さらに瓦解させた強力なラインでもある。

異界の王がこの場所に埋葬された直後、武蔵野には国府が成立する。その事実の意味は多様な解釈が可能だろう。異界は収奪されたのかもしれず、異界が中央を取り込んでしまったのかもしれない。

ただひとつ言えることは、この塚は遙かな時空を飛び越え、もうひとつの広大な王墓と、多摩川を挟んで今も静かに対峙しているということだ。その王墓とは、高尾山の山蔭に鎮まる最新にして最大の上円下方墳、昭和天皇陵である。