幻想の二輪

モト・グッツィという会社はいかにもイタリアのメーカーらしく、数十年も前からとうにマスプロダクツの論理の元に世界規模で生産調整されているところの自動二輪車(以下「二輪車」と略称)という工業製品に対して胡散臭い匠気をもって対峙する姿勢を延々改めず、90年代には一気にその財務内容を悪化させて遂には事実上倒産した。──にもかかわらず、社名の存在感のあまりの大きさに、ライバルメーカーであるデゥカティは国内外の社会的な圧力を受けその看板を引き取らざるを得ず──つまりはその庇護のもと現在でも営々と暢気にイタリアを代表する二輪車メーカーであり続けている。

グッツィの二輪車メーカーとしての特質は、草創期を除きその製品ラインアップの全てを一貫して横置き90°Vツインエンジンと駆動系におけるシャフトドライヴという伝達システムで構成してしまったことにある。純粋に工学的に考えて、二輪車においてこのシステムに、固執するほどのアドヴァンテージが存在するわけではない。つきつめて考えれば、単に、「こうしたいから」という趣味以上の理由は、存在しない。

しかしここで重要なのは、二輪車とは感性の乗り物である、という事実である。
たった一人や二人を移動させる為に1000cc前後の排気量でガソリンと酸素を消費する、つまり最も非効率に資源を浪費し効率の良い環境破壊を行う機械。この反社会的な存在をあえて生き長らえさせている論理が、通常の工業製品を生産するためのそれと脈絡を同じくするわけがないのである。
二輪車とは、イカレた製品である。
全ての二輪車は、異常である。

その異常さのひとつの極北が、モト・グッツィの製品群である。

かつて一度だけ、その代表的製品であるところの"Le Mans"というシリーズのマシンに跨ったことがある。(おそらく「?」と呼ばれるタイプだったと思う。)
スロットルを開けると、特徴的なタペットノイズがパタパタパタと膝元から騒々しく立ち上がる。シャフトドライヴの回転モメントのため、加速時に一瞬右側への不可思議なヨーイングが発生する。コーナリング時にはサスペンションの設定のせいなのか、コーナーの中心に向かって車体が頭から沈み込んでゆく。泥沼に引きずり込まれていくような感覚だ。異様である。ことごとくが異様であるとしか言いようがない。
しかしひとたびこの夢魔に跨って冥界を駆け抜けるが如き面妖なライディングを経験した者は、最早その彼岸から立ち戻ってくることがない。メフィストとの契約である。
長い間、その契約について私は忘れ去っていたが──いや、この自己韜晦に友人の2、3は失笑を以て応えるに違いないが──グッツィのある最新カスタムモデルの存在に、心底の熾火が業火と化そうとする前触れを感じ動揺する私。うー。

居間の巨大なテレビ画面に大写しになった1947年製「インディアン」──戦後急速に衰退した米国の二輪車メーカーの名である──のマシンを見ながら、こりゃ粗悪品、と、ぼそっと一言だけ父親はコメントしたが、モト・グッツィへの熱烈なるオマージュをまくし立ててそれに応えた私に対しては、その何でも鑑定番組の画面を凝視したまま無反応である。
喋るのもごく面倒なようで、耳も前回会ったときよりさらに遠くなっているようだ。

暫くの沈黙の後、ワシが乗っとったのはMGM。と、また1行コメントの後、彼は、台所からくすねて手元に持ってきてあった焼魚の皿から、焦げた皮を掴み上げてバリバリと咀嚼した。オイ魚の焦げってのはなあ、と言いかけて、その内実がもはや全く意味をなさないことに気付き、暗然とする。