アンリと

アンリ・カルティエ・ブレッソン死去。生きてたのか!という感想も多かろう。95歳でありました。ブレッソンの写真もまた居合斬りスタイルであるから、その職人性の高さは日本人好みである。マグナムの設立に関わった事実と、例の「決定的瞬間」というタームから報道写真家として切り取られる傾きのある写真家だが、彼のプリントは極めて審美的なものである。「写真は射撃だ」──などと言い放ったそばから、比率のとれていないものを見るほど苦痛に満ちたことはないなどと言明していることからも分かるように、彼のキャリアは絵画から始まっているので、フレーミングにおける視線の絶対性は極めて厳密なものがあり、従ってプリント時のトリミングはほとんど無い。言うは易しで、こんなことは普通、出来はしないのである。

とかなんとか。壁面にしつらえられた写真集の棚の前でつらつら考えているわけで、例によってのパタンで恐縮である。私が居る場所はというと、ABCルミネ2店遺跡の上に構築されたブック1st.のであった。流通倉庫在庫と緊急出品要請に応じた品をぶち込んで1日に開店、のワリには、見事なほどにブックファーストになりきっている。
もちろん、児童書などという棚が何の変哲もない品揃えでヌボーと場所を取っていたり(私の滞留中一人も立ち寄る客なし)、圧倒的に女性誌ユーザーが多いにもかかわらず皆さん立ち読みぎゅうぎゅうの狭小コーナーに詰め込まれていたり、おっさん経済本が虚しく壁面埋めてたり、文庫コーナーの無機的な整頓状態が辛かったり、菊地成孔の本が音楽コーナーにしか置いてなかったり『ケルベロス第五の首』が置いてなかったりりりり(次第に細かくなる)、まあそりゃいろいろある。いろいろあるが、占領軍として乗り込んできたK店長は、かつてABC六本木店にあって弊社の如き特殊版元をまあ人並みに扱ってくれた人物である。なんとかなるだろう。それはいいが、脱藩浪人が官軍として凱旋してきたようなものか。いや、苦みの伴う仕事ではあったろうが。

写真集の棚の前で、夢見るシャンソン人形みたいな女の子がウロウロしている。横目で見ていても棚に戸惑っているのがわかる。私はといえば作業服風のいでたちで棚前にガバと屹立し右脇に四冊も本を挟んで立ち読みするという超絶技巧を披露しており、店員か何かだと思ったか、あのー置いてあるのがだいぶかわりましたねー、と話しかけられる。私はハタと気付いたのだが、この店内を逍遙しているほとんどの客が、この地に何が起こったか知らないのではないか。単なる改装程度にしか受け取られていないに違いない。なるほどと思いつつ二、三の会話で写真集専門店などを教示申し上げ、他の店を教える店員もないだろうから私の正体を何と踏んだであろうかと感慨を憶えつつ、そして脳内にシャンタル・ゴヤの歌声を流しつつ、彼女を見送る。

目の前の棚には、ブレッソンの写真集はというと、むろん置いていない。

唐突で申し訳ないが、美しさとは何であろうか。
これは岸田貢宜という無名の写真家が、被爆2日後の広島、爆心地付近で撮影したものである。

背景の中間調の灰色の美しさと、骸骨の如き電車の残骸の内部の深い黒との対比。報道写真に求められるものではない美しさがここには存在するのだが、その美しさは当然のように悲劇的な事態を鮮烈に伝える。奇跡的な写真である。
ブレッソンの写真は、似たような事情の上に成立している。いや、ブレッソンに限るものではないが、写真の美しさという問題系に立ち入る入口のひとつがここにも転がっている。またその迷路に誘われる。

ポートレイト 内なる静寂―アンリ・カルティエ=ブレッソン写真集

ポートレイト 内なる静寂―アンリ・カルティエ=ブレッソン写真集