近代史とじいさん

アジア歴史史料センター(http://www.jacar.go.jp)がとんでもなく面白い。

国立公文書館にある『太政類典』『公文録』や防衛庁防衛研修所にある『陸軍省大日記』等を、目録検索できるだけでなく、自宅から読むことができるのである。凄いプロジェクトである。

要するに「図書館の禁帯出の貴重資料→閲覧には身分証明書要、万年筆使用不可、コピー不可」が、司書のおばさんのうさんくさげな視線を経ずとも、自宅で読めるというわけだ。設立の経緯を読むとわかるが、村山富市首相、在任中唯一の輝かしい業績ではないでしょうか。

で、ぼんやりと『軍事機密大日記目録』を見ていて、ふと思いつき、亡くなった大叔父の名前で全文検索してみた。

彼は陸軍軍人だったようだが、私の知る限りただの田舎の蜜柑農家のじいさんであった。戦時のことは復員後親族のだれにも一切語ることはなかったらしいが、そのことと彼が一時B、C級戦犯として東京裁判に引っ張られたことはもちろん無関係ではないだろう。委細は知らないが、結局何のお咎めもなく釈放されたようである。

と考えていると、まさかと思ったが、1件ヒットした。

関東軍第十師団第十一連隊所属の歩兵少佐──この男は昭和16年1月、満州の小興安嶺を越え、湯旺河上流地域の兵用地誌を探るため、吹雪の中、部下を率いて長駆冒険的な調査行に出発する。2週間の調査行の後、帰還した男は、詳細な報告書を関東軍中枢に提出した。どうやら対ソ開戦時の攻撃迂回路を確保するための秘密調査行だったようだ。70頁にも及ぶ報告書には黒々と「極秘」印が押されている。

じいさんは、ただの人の良いお百姓さんではなかったのである。

しかし「副食物ハ干鰯、塩干魚等軽量ナルモノヲ便トス」とはじいさん、食い物に細かいじゃないか。降り積もる雪の中、徒歩の調査行に重い荷物はよほど辛かったのだろう。餅を青竹に突っ込んで焼き、閉口する私に向かって、竹の油は体にええんじゃ、食え食えと突き出すじいさんの姿を思い出す。

グルメなのか悪食なのか、よくわからんじいさんは、晩年一度だけ、よれよれの背広姿で東京に現れた。渋谷のロシア料理屋、ロゴスキーに連れて行かれ、学生だった私はあまりに田夫子然としたこの老人と一緒に立派なレストランに入るのに多少気後れしていたが、じいさんは構わず胸を張ってずんずん奥へ進むのだった。なぜロゴスキーなのか、私には理解しがたかったが、その事を問う私に、いや、この店の先代とは仲が良うてな、と言うのみだった。

今にして思えば、ロシア料理というポイントからして、満州時代に知り合ったのに違いなかろう。その夜のじいさんは陽気で、ウオッカを飲み、料理をどんどん追加した。食え食えを連発しながら、料理の内容を私の横で説明するのである。不思議でならなかったが、この関東軍の将校殿、奉天だか旅順だかのロシア料理店の常連だったな。くそ。

さてその夜、もうひとつ忘れがたい光景がある。

渋谷駅頭で別れる直前、駅の手前の暗がりで男女の争う声が聞こえた。外人──白人の若い男女である。二人の刺すようなやりとりは、よくわからないが、英語ではない。気付かぬうちにじいさんがひょこひょこと近づき、私が制止する間もなく、男に向かって声をかけた。

そして、じいさんの口から出たそれは、どう聞いても、フランス語だったのである。

男はびっくりしたように小柄なじいさんを見下ろし、黙った。じいさんがまた二言三言声をかけると、吹き出すように笑い出し、じいさんと握手し、照れくさそうに女の肩を叩いた。女はじいさんの肩に手をかけ、にっこり笑うと、二人は駅に消えていった。

この事態を一体どう理解すべきか悩みに悩んでいる私に向かって、じいさんは、「市ヶ谷の学校に通っとる時はのう、フランス語を勉強したんじゃ」と言って笑った。当時の私にとっては全く意味不明だったが、飲み慣れぬウオッカで不明瞭になった頭では、さらに何を質問すべきなのか、思いつくことは不可能だったのである。
今の私にとっては、じいさんの言葉は様々な意味で興味深い。とりあえず指摘できるのは、明治初年に陸軍がフランス式からドイツ式にその用兵思想を大転換した後でも、陸軍士官学校の教育にフランス語も依然用いられていた点である。

改札口で別れる直前、私はじいさんに、一体何を話したのかと訊ねた。じいさんはごま塩髭の浮かんだ真っ黒な皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにし、私の耳元で小声で、「戦争はいけませんのう、言うてやったんじゃ」と言った。