木下本の指し示すもの

『世の途中から隠されていること──近代日本の記憶』(木下直之著、晶文社)で著者が拾い集めるのは、見世物、造り物、人形、お城、記念碑、ある種の古写真等々である。

これらはわれわれの前にぬっと在り続けてきたが、誰一人として注視した者はいないといっていいだろう。木下氏は一応美術史家ではあるが、彼の視野に入ってくるのは、われわれが見落とし続けた物によって紡ぎ出される、近代という物語である。

あえて視野を偏狭にして本書を見るなら、これは大きな物語としての「日本美術史」に対する疑義から生まれた、地道な検証の成果である。しかしそう容易なものでもない。子細にその叙述を追っていくと、彼の検証する領域の境界部分は、常に何物かを侵犯しているかのように見えるのだ。
その対象には、もちろん民俗学とか建築史学など、具体名をあげることはいともたやすい。しかしこの本を読み進めると、事はそんなに簡単ではないという気がしてくる。著者の作業の核心は、日本の近代そのものを検証するツールを、新たな手法で見いだそうというところにあるのだ。

文化研究の諸学が一種のサブカルチャー化とでもいうべき波に洗われているのは、ここ数年全般的に見られる傾向である。メインカルチャーの権威が持たなくなってしまえば、そこに拠るよりは、それを疑うという姿勢の研究が、より「カッコイイ」のはごく当然の話である。既存の権威を神話に仕立てて、それを解体するというストーリーである。それぞれもちろんそれなりの必然性と正しさはあるが、安直さは否めない。「神話」になったものはやはり「神話」としてつくられた、という一種のトートロジーを厳密に検証するという罠に陥っている場合が多いのである(井上章一氏の『つくられた桂離宮神話』などは、典型例だろう)。

木下氏の場合も、むろんその「サブカルチャー化」の流れの中の作業を行っているのは変わりない。しかし彼の向かうのは「神話」ではなく、そのへんにころがっている「見えないもの」──見えていなかったもの、なのである。その作業には何の演劇的な大仰な身振りも衝撃性もないかわりに、われわれの視覚的世界の記憶の秩序を根底から覆す火種を隠している。

本書に対して柄谷行人氏の『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫)を併置して考えると、より日本近代という「問題」が浮き上がって見えてくる。文学が日本近代において「風景」や「内面」を発見していく過程(柄谷著作)と、「見世物」や「造り物」が忘れられていく過程(木下著作)がどう交差するのか、しないのか。「内面」の発見(柄谷著作)と「肖像画」の発展(木下著作)はどう交差するのか、しないのか。近代という時代は、制度と規範による抑圧をその特徴とするのだろうが、文学という制度からその抑圧に切り込む柄谷氏と対照的に、無制度で無規範な「もの」たちにそれらを読み取ろうとする木下氏の手法は、対象の長閑さに惑わされがちだが、それだけにより先鋭なものとも言えるだろう。いずれにしろ木下氏のこの著作は、われわれがどのような時間と空間の記憶の中に位置しているのかという感覚を得るための、重要なヒントを与えてくれるのである。

世の途中から隠されていること―近代日本の記憶

世の途中から隠されていること―近代日本の記憶