バブル、日々の

1989年、毎夜毎夜の新宿で、泥酔しつつも必死の思いでタクシー止めようと手を振り回していたが、深夜3時に行き交う空車は私の存在を断固として認めぬとでも言いたげに何故かスピードを上げる。あの空車たちは一体どこへ向かっていたのか、今でも不思議でならない。大体いいかげん諦め、近隣の朝まで居酒屋・喫茶店、あるいは知り合いであるなし構わず居合わせた人間のアパートへ転がり込む。
日々そのくり返しでいい加減飽き飽き、泥酔するのをやめればいいものの、またもある初夏の深夜の靖国通り、何を考えたか突発的にプラグが外れた私、飲友どもの止める声も聞かず、行き交う車掻き分け、よくアメリカ映画で見る状況、急ブレーキと罵声とクラクションの飛び交う中、センターライン近くで本人仁王立ちのつもり、後で聞くと車の間で前衛舞踏であったとの事だが、とにかく両手を挙げて辛くもタクシーを阻止したのであった。

同じ頃、大陸の隣国では、天安門広場目指して整然と進む戦車の列に一人の学生が立ちはだかり、私が泥酔している間に一連の事件の象徴となっていた。

今日会った中国人の青年は、達者な日本語で、天安門のことはよく知らない、将来は貿易の仕事をしたい、と屈託がない。それはそうだろう。あの学生と私が同じ年格好なのだから、君はあの頃小学生か。先生(あちらの人は皆こう言う)は中国に行ったことありますか、と訊かれ、一度上海に、と答えると、いつ頃と重ねて問われ、6年ぐらい前になるのかな、と言うと、ずいぶん前ですね、と真顔で頷く。そうだね、資本主義の速度はそんなもんだよ、と言いかけたが、やめておく。