シット・インのことども

例によって、と言うべきか、休み前に体調急降下、風邪なのか何なのか、連休中ほぼ臥所の中で過ごす。

2日以上世間との交わりを絶っていると、どうも自分はこの世で無用の者なのではないかという思いが頭上の空間にむくむくと大きく膨らむ感覚が現れる。この感覚に押し潰されて負けてしまったのが大学2年時であったか。
ほぼ引きこもり状態であり、その反動で飛び出すと放浪するという、なんとも分類しがたい病状であった。

その頃は、高円寺近在の友人たちとも、音楽だけで繋がっていたような感がある。

駅の南口を出て通りをしばらく行くと、Pal商店街から延びてくる横道にぶつかる。タオルで鉢巻した紳士が御機嫌な立ち飲み屋でキメていい色になっている辺り、角の少し手前に怪しい風俗店があったのだが、階段を上がった2階にあるその店の扉の向かい側に、超オンボロ音楽スタジオ「シット・イン」の入口があった。要するに1階の入口が共用なのである。通りを歩いてここに入ろうとすると、呼び込みの兄ちゃんに迎え入れられ、ピンクのネオンの中に入るようなハズカシイ形になるのである。しかし敵もさるもので、たとえギターを担いでいなくても人相風体で客とその他を判別するのである。私が近づくと見向きもしない兄ちゃんは、私がギシギシ軋む階段をゆっくり上り始めると、また通りを歩く男たちに「社長っ!先輩っ!」と大声を張り上げるのでありました。

友人からはだいたい夜の10時過ぎなどに呼び出しがかかり、何だかんだで12時頃からスタジオに入る。このパターンの時は大抵、呼び出した相方が夕方からスタジオ番をしており、その時給代わりに夜中空いてるスタジオを使っていいという不可思議な状況が多かった。引きこもっている私にとって夜中のスタジオというのは自分の空間の匂いがあり、出かけるのには抵抗が少なかった。

スタジオに辿り着き、受付とか事務室とでも呼ぶべきなのか、落書きやらポスターやらで前衛芸術と化した壁に囲まれた極小の煙草臭い空間、ゴミだか機材だかなんだか分からぬ何物かがあたり一面にぶちまけられた中で、穴のあいたパイプ椅子に胡座をかいてぼんやりしていると、住み着いている通称「青山ボチ」という名の猫が風俗店から帰ってくる。ツナ缶をやる。電話がかかってくる。夜中の電話は大抵滅茶苦茶である。今咄嗟に思い出すだけでも、Foolsのメンバーから、今ギターがトンズラしたんで誰でもいいからそこらにいる奴を飯田橋のエクスプロージョンに連れてこいだの、チャンス・オペレーションのメンバーから、四畳半しかないこのスタジオでライブしたいだの、もう高円寺パワー爆発である。

風俗店に拮抗する如く相方と結構な音量を出し始めると、粗雑な造りのスタジオからはバンバン音が漏れる。階下を歩いている通行人にも聞こえるので、昨日の曲はあんたらだろう、おもろいね、などと後でたまに指摘された。無意識ライブである。連日のことでもう誰もがルーズになっており、夜の8時ぐらいから入り浸っていると、いつのまにか店番みたいになってしまって勝手に翌日の予約を調整したりしたが、かえって感謝されるのである。何というか、人民公社スタジオの感があった。

いろんなバンドがこのボロスタジオを通り過ぎていった。ザ・スターリン遠藤ミチロウ氏は大人の風格があったが、ドラムスの彼(名前忘れた)はよく窓から道行く女性にヤラセローと叫び続けていたなァ。まあ、この手の話はきりがない。フリクション突然段ボール、くじら等々のみなさん、お元気でしょうか。まだ布袋寅泰氏も当時は高円寺でベルトの卸やってたし、布袋氏といえばBoowy高橋まこと氏は駅前の鬼無里(飲み屋)でやたら顔を合わせたのも懐かしい。もう連想ゲームだが、鬼無里の隣のゲーセンではよくアレルギーの宙也君が一人ゼビウスをやっていたのを今思い出した。私がボーっと覗いていると、代わりましょうかと話しかけられたものである。たぶん育ちがいいのだ。

そのアレルギーのU子女史は、当時やたらパワー溢れているように思ったが、この度雑誌「EATER」8号(テレグラフ・ファクトリー刊)を読んで、もうかなり以前に、フランスでその短い生涯を終えていたのを知った。自分の丸坊主の頭を撫でて、キャバレーでバイトするにはカツラかぶりやすくていいよと笑っていたのを、なぜかよく覚えている。

80年代後半、私は高円寺を離れると共に音楽からも全く足を洗ってしまったが、風景のように眺めていた高円寺の人々の上にも、当然時間という残酷なものが流れていることに、多少感傷的にならざるを得ない。体が衰弱しているせいか。ゲホゲホ。