必殺案内人

月曜日のことだが、自転車でフラフラ都立野川公園の前を通り過ぎていると、門前の横断歩道を渡った辺りに少し人だかりがしている。何かと思って近づけば、近藤勇先生生誕の地の史跡に観光客がいるのであった。大河ドラマってのは、たしかにスゴイんですな。井戸の跡があるだけで、何もありゃしないんである。

自転車に乗ったまま眺めていると、地元民だと思ったのだろう。一人の老紳士が、近藤先生墳墓の地をお尋ねになる。止せばいいのに自転車を降り二、三の歴史的エピソードなど方位指し示しつつ身振り交えておしゃべりしていると、気がつけば何人か周囲に集まりふんふんと頷いているプチはとバス状態。冷汗が出る。こちとらその場所に行けば直ぐに説明看板でわかってしまうようなことをいい加減に話しているだけなので、間違いがバレるとマズイ故、全ての観光ポイントが当地からは直行困難であるということにする。直行困難であることを説明するためさらに贅言を弄し、ますますドツボにハマる。

以前にも触れたが、幕末の多摩地方一円は、江戸という濃密な市民世界に接した、中世の香りを残した地域と言ってよかろうかと思う。江戸市中が奉行支配の警察国家であるとしたら、多摩一円は家康入府後も(ごく少人数のスタッフしか持たない)代官支配の、ほとんど司法権の存在しない緩やかな相互監視で成立していた社会である。そのギャップは想像以上に大きいように思う。江戸人の意識がほとんど近代に到達していた時期、隣接していた多摩は中世以降保持してきた鬱屈した自意識が肥大して破裂寸前だったのである。土地を自らが保持しているという「公」の意識の強い百姓たち、中世の豪族がそのまま大百姓に移行した地域的特性が、武張った土地柄を生んだと言えるだろう。江戸人はさっさと近代人に宗旨替えしてしまったが、隠れ武士という無意識の上に立つ多摩人にとって、自らが依って立つ「公」とは無条件に武家体制である徳川イズムであり、その屋台骨が傾いた時に救世主となる選ばれた民こそ我々であるという情動において激発したのだった。新撰組というアナクロなまでの多摩のエキスが時代のスケープゴートとして、通過儀礼のような殺戮の嵐を巻き起こした後、その行き場を失った「敗者の精神」は、明治期以降そのままこの地方を大きく覆う自由民権運動に直結していくわけである。

国民国家体制というのは無情なもので、もはや我が地にも多摩人の痕跡すらない。中世の豪族は、さかのぼればこの地方の渡来人の開拓集団につながると私は考えるが、朝鮮半島新撰組をつなぐ大法螺話ははとバスには似つかわしくないかもしれん。当然老紳士たちには伝える由もなく、しどろもどろで尻切れトンボ、ダッシュで離脱。