事故のてんまつ

先般の護衛艦衝突事故の謝罪のため行方不明者宅を訪れた艦長の写真を新聞各紙で御覧になった方も多いでしょうが、正面から撮られた艦長の制服左胸には略綬が一切取り外されておりました。既に罪人扱いというわけですね。それはそれとして今般の事故について…

中原淳一と内藤ルネの間に横たわるもの

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それは「カワイイの河」である。中原にとって、少女というものはあくまでレディへの里程標の中に想定されているものだ。彼の創造する少女たちの表象するものは、常にある種の完成像を希求する何者かである。目指すものは「たしなみのある女性」であり、「結…

キミヨシとわたし

『太平記』巻三十一の「新田起義兵事」の段に「故新田左中将義貞の次男左兵衛佐義興・三男少将義宗・従父兄弟左衛門佐義治三人、武蔵・上野・信濃・越後の間に、在所を定めず身を蔵して時を得ば義兵を起さんと企て居たりける処へ、吉野殿未だ住吉に御座有し…

「タイーホされますた」一件

に就きて書くと言ひ条。 当ブログのヘビーユーザー連には粗方喋ってしまったのでやる気が失せてしまったというのが実情であるが、ともかくもよんどころない理由で新宿署刑事課大部屋及び取調室を見学中、脳内に提起されたのは「ブログ業(ごう)」という概念…

呼称論(弐)

まことにシツコイようだが、カントクでもう一つ思い出した。知人のS君(年齢不詳・消息不明のため現職不詳)は私が小汚い倉庫でフォークリフトを乗り回していた肉体労働者時代、同様に肉体労働に従事していた同輩である。 ある日彼は何の前触れもなく、オレ…

呼称論

知人のY君(哲学者・推定34歳・金髪)が自宅近くの寿司屋に立ち寄った途端、そこの大将から二人称として「カントク!」と呼ばれっぱなしだったと仄聞するにどうにも笑いが止まらず、果たしてそれは如何なるカントクなのか、何物をカントクする存在なのかとい…

川土手

福井芳郎という画家については、私は全く知るところがなく、また特にこれから知ろうとも思っていない。 目立った仕事を残したわけでもなく、また画壇で成功したとも思われないこの画家の名を私が記憶しているのは、昭和20年8月、広島市西観音町2丁目角に陸軍…

崩レル

さきほど職場の神聖不可侵な書籍山が崩壊し、あーあという最中に山から転がってぽっかりと掌中に収まった一冊を見て十数年も前の思い出が蘇ったので、取り急ぎメモしておく気になった。この本の以前の持ち主についてである。前後の情景は浮かんでこないが、…

唯物論の夜

日暮れ方であるが、三鷹の禅林寺近くである。 寒風吹きさぶ人影少ない寂しい街路、得体の知れぬ薄暗い店の奥に古びた腹話術人形が投げ捨てるように置かれているのを脈絡もなく目撃して(あたりまえだ)、妄想スイッチが入るようでなんともいえぬ。出来過ぎで…

姓名判断

日々諄々とニュース報道に接しながら疾うに接する重心はずれていて、昨晩も深夜の報道番組を横目で見ながら、姉歯一級建築士のナイスキャラにmixiのコミュできるのも時間の問題だなという感想しか湧かず、大体いまどき日刊新聞などを宅配で取り続ける理由は…

賢人とわたし(覚書)

誤解とか勘違いとか、そのようなものから生まれたなにか余滴のようなものが妙に芽吹いて、なかなか自分の内部でも大きな存在感を俄然発揮しつつあるのが可笑しい。読書会なるものに参加しているのだが、そもそもこの読書会が誤解から発生しているわけである…

alive?

ミシャグチの神はまことに蒼古としてゆるやかな神格で、もはやこの世には、このカミを祀る神社らしい神社すらない。 いや、神社という装置も、明治の御一新以降、異界とのアクセス・ポイントとしての機能をゆるやかに失いつつあるから、ことさら嘆かわしく言…

博覧の季節

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剣持勇の諦念のようなものを知るには、私などはまだ半端な人生経験を経ているに過ぎない──といった感懐にとらわれる。彼のデザインした籐細工の椅子を前にして、つくづくと思うのだ。彼が自らデザインしたソファの上でその命を絶ったのは、1971年のことだが…

謹賀新年

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本年も宜しくお願い申し上げます。ということで、昨年からの積み残し展観memo数件。 いかにもカッコ悪い。 『興福寺国宝展』(於東京芸大大学美術館) 廃仏毀釈というイヴェントが最も戯画的な形態をとったのが、あるいはこの寺だったか。もともと藤原政権的…

恒例

art

さりとて本日の、お向かいさんのモスバーガー前はサンタ姿のアルバイト少女。例年同様殺気を振り撒いておられる。本年の彼女はキャッチセールス風である。よりアグレッシヴである。つまり「こんなサンタクロースはイヤだ」と言いたくなる風情である。昨年同…

炎上

深更、ダイニングの床に遺棄死体の如き姿勢で横たわっている自分を発見する。卓上に屹立する「酔心」の一升瓶を酔眼朦朧として見上げながら、なにゆえこのような中途半端な時間に目覚めたのか不審に思うが、耳朶をつんざく、深夜には異様なブォー、ブォーと…

長雨に脳髄腐食哉

マツケンサンバがどうのと喧しいが、かつての東映時代劇を見ている目には何ら新鮮味無く、単に王道の継承あるいは狂い咲きではないかとフジワラ編集室相手に熱弁を振るう。旗本退屈男が刀を大上段に振りかぶった途端、ホリゾントの背景が七色の照明で安キャ…

古本に諭されるの記

成城で清談を終え、寄る辺なき中途半端な時間、脳内も半ば中途半端な思いのまま、久方ぶりのこの街を歩いて、ハタと思い出すキヌタ文庫。整然と御立派な邸宅が並ぶ町中に、ぽかりと浮かぶ古書店なのである。10年ほど前までは国分寺崖線の急峻な坂をアホみた…

アンリと

アンリ・カルティエ・ブレッソン死去。生きてたのか!という感想も多かろう。95歳でありました。ブレッソンの写真もまた居合斬りスタイルであるから、その職人性の高さは日本人好みである。マグナムの設立に関わった事実と、例の「決定的瞬間」というターム…

もろもろ

青山ブックセンター(通称ABC)が閉鎖され、カルロス・クライバーが死んで、東京が異界に変じた熱波の7月でした。ABCの件は「はてな」にて歌会を開催しており附言することは何もないと大見得切りたいが、関西方面諸賢は何のことかお分かりになるまい。京都だ…

注目すべき人々との出会い

とは神秘家グルジェフの自伝ですが。<大いなる知恵>を求めて様々な地を旅して、「注目すべき人々」と出会うわけですね。web上である種の混沌の中に茫漠と触れ合っていた人の輪が、核となるイヴェントを契機に整然たる人間関係になる、という得難い──のかど…

幻想の二輪

モト・グッツィという会社はいかにもイタリアのメーカーらしく、数十年も前からとうにマスプロダクツの論理の元に世界規模で生産調整されているところの自動二輪車(以下「二輪車」と略称)という工業製品に対して胡散臭い匠気をもって対峙する姿勢を延々改…

嗚呼黄眠艸堂主人

小学生の頃は── 学校がいやでいやでならなかつた。なぜ、あのやうに下等で、意地わるな横着な子ばかりゐて威張つてゐる小学校などといふ処に通はねばならぬのかといつも心に嘆息してゐた。 それよりか家にゐてねころんで、夏ならば水羊羹、冬ならば花林糖の…

バラケイ

現役最長老の著名写真家H氏と宴会。久々の大物で緊張するが、気さくなおじちゃんであった。というよりも長年の教育家生活で、人格が完全に教授モードと化してしまったようである。60年代、三島をゴムホースでぐるぐる巻きにした写真とか撮っていた時代にはも…

翁話

近鉄とは河内の国のチームであって、摂津のチームであるBWとは全くその出自・性格を異にしている。かつては和泉のチームである南海が両者のはざまで純粋な大阪を表象していた。翻って考えるに、阪神なるものは全国ブランドであり、関西全土に君臨している超…

一句進上

『九十歳、青山光二が語る思い出の作家たち』第六回 大川渉(「ちくま」2004.6 第399号 筑摩書房刊)より丸ビルの五階にあった中央公論社の入り口近くの応接室である日、青山と担当編集者高梨が、ゲラの仮名遣いのことで言い争いをしていると、永井荷風が入…

墳墓記

関東とは古来、日本の中の異空間なのであった。西からの視線において、である。武蔵野はその中心をなす空虚であり、古代武蔵国は分国配置では東海道から切り離され、不自然に東山道にぶら下がる形の地理感覚を以て都から空間把握されていた。東海道は海を渡…

夜間飛行機

暗黒の底にぽつりぽつり直径1センチほどの穴が開いているのだが、すべて野球場である。都市部を過ぎ、山中に入ると、見渡すかぎりの闇の底に、地球の窓でもあるかの如く、ほぼ50センチ四方にひとつといった割合で、穴が開いているのだ。見た目のサイズで言っ…

キルビル

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六本木ヒルズに赴く。午後7時を回り益々盛ん也。一気に50何階だかに吹き上げられた勢いで今回は結論を先に述べさせていただくが、この森美術館「MOMA展」の展示空間の貧相さは一体、なんであろう。照明は体育館の如く、床も同じく体育館の如く、周囲のカタ…

美しき死体について

宮内庁近辺やら何やら、似合わないところをぐるぐるたらい回しで汗みどろ。どうなのだ。夏ではないか。すぐ日焼けするのが不愉快である。地黒なんである。日焼けして一層頭が悪そうに見えるのが余計不愉快である。上野までよろよろ辿り着き、東京国立博物館…